北関東産官学研究会 群馬地区技術交流研究会 熱流体分科会 講演会 講演要旨


最終講義「流れのままに」

小保方富夫(群馬大学大学院工学研究科)

 

1.はじめに

  本日はお集まりいただき,誠にありがとうございます.本稿は,平成161030日,淺沼強先生の米寿を記念してCD出版された「レシプロエンジンとジェットエンジンンの時代に生きて―淺沼強先生に始まり谷田好通先生までの系譜と思い出」に掲載した内容そのものです.私としても,何とか無事に定年を迎えられる喜びの全てを改めて述べたいものと希望を持っていたのですが,本文を越える内容の再記述は困難で,また最大の理由は時間がなく,手抜きをさせていただくことに致しました.この失礼をお許しいただき,田舎教師の自己紹介を始めます.

 

2.渡良瀬川の中洲

小保方という苗字は少ない.しかし,群馬県には100軒,東京の電話帳にも20軒ほどあるので,希少な部類ではない.「上州の苗字と家紋」(上毛新聞社,1979)によると,生形,生方,小保方,小生方,小補方,宇夫方(平家物語,宇治川の合戦,1180年)など各種の表記が,時代を前後して使われているが,地名に由来している.古来,渡良瀬川は大間々扇状地において南流しており,扇状地には多くの中洲(生潟,洲間,矢原)が生まれたり,消えたりしていた.その小さい生潟(ふかた)を小生形(こふかた)と呼んだというのが起源といわれている.中洲に住み「流れのままに生成流転するもの」との苗字の由来からか,私自身もそれなりの浮沈を繰り返しており,流れに関係した仕事ができるのも,淺沼・長谷川・谷田・岡島・長島の皆様など,流れや中洲に関連した方々にお世話になったのも,何かの因縁なのかと思っている.

 

3.小田原城

生形家の系図や碑文によると,「房州里見の一族にして上州佐位郡生形村に住す.天正のころ生形隼人と云う者あり由良家の近臣也.太閤小田原城を攻めしとき(1590),主人由良成重と小田原城に篭る.----」とある.このとき,運良く生き残った「里見からきた若者」が生形村の娘と結婚して生形を名乗ったのがルーツとされている.その長男が板倉(現在,足利市)に移り,次男が地元の小保方,三男が新町の小保方となっている.確かに先祖の塚は「生形」となっており,長男が家を出る例は私も含めて数多く,流れのままに生きていることの証と思われる.

 

4.蒸気機関車と農業の機械化

米作と養蚕を中心とした農家の長男に生まれたので,跡継ぎとしての自分に何の疑いもなかった.機械に対する興味をもつ機会はいくつかあった.一つは小学校の1年のころ,叔父に連れられて行った前橋博覧会の帰り,満員で客車に乗れず,蒸気機関車に乗せてもらったのが最初の驚きであった.揺れるし,熱いし,うるさいが,その力強さに圧倒された.また,昭和30年前後は,時代の急激な変化と農業機械化の始まりで,揚水用のバーチカルポンプ,耕運機の石油エンジン,自転車にエンジンを取り付けたバイクなど,「機械はすごい」の驚きの連続であった.しかし,機械が将来の専門となるとは思ってもみなかった.

 

5.浮沈と回り道

人に語るような人生を過ごしたわけではないが,節々にいただいた先生方の導きは,自分の生き方を大きく変えた.これを教訓に,現在の学生指導でも,親身な対応を第一としている.私自身も挑戦と挫折を繰り返したので,人に判断を求められたときは「挑戦」を進めている.挑戦を止めたときは「悔いが残る」が,挑戦して負けたときは「諦められる」ので,後の行き方に大きな差が出るように思う.

高校進学に際し,農業高校への進学には興味がなく,農業を継ぐとしても工業高校だと思っていた.高校進学模擬試験を受けたところ,県内で20番代だったこともあり,「お前は大学進学校に行け,そうしないと将来後悔するよ」と国語担任教師に言われた.しかし,当時はその意味が理解できず,父を早く亡くしていたことから予定通り伊勢崎工業高等学校の機械科に入学した.別の高校に行ったら別の人生があったかも知れないが,このことは後悔の対象とはなっていない.

高校入試の後,担任の先生が自宅に来られた.「一番なので入学式の誓いの言葉を練習する」ことになった.既に文章ができており,大きな声で読むだけだったので,内容は何も記憶していない.高校生活は楽しく,生徒会長などもやらされ「目立つことが嫌いの自分の性格」に逆らってストレスが溜まった結果病気にかかり3年の途中から休学となった.一番で入学しての落第は,前例のないことであろう.しかし,二つのクラスの同級生を持てることになり,後々大きなプラスになった.

復学して就職時期となり,新しく小泉に進出した東京三洋電機の会社説明会があった.大勢の希望者があり,担任の森村宏先生から,お前には工場勤務は無理だから別の道を考えようと言われた.そこで紹介されたのが,群馬大学の技術職員であり,これが大きな転機となった.

19624月群馬大学工学部の技術員として採用された.しかし,担当予定の宮本義一先生は群馬高専に移られ,籍も工場からの借籍であったので,実習工場勤務となった.私としては何のためらいもなく与えられた仕事に専念し,多くの機械を学び,物づくりの基礎が身に付いた.今でも「旋盤でめねじも切れる」し,「ホブ盤で歯車」も作れる.歯車の技術は後に層流型流量計の製作に役立つこととなった.

もう一つは時間が十分あった.公務員には公務員試験があり,受かると給料が上がると庶務の橋本さんに勧められ,高校の教科書を三ヶ月で全部読み直した.今から思うと随分無駄なことをしたようだが,幸運にも機械職の初・中・上級(甲)試験に3段飛びで合格した.成績はそれぞれ1227番であったと聞いた.これが後に淺沼先生に紹介されるきっかけともなった.

1年間の工場勤務から金属材料の永倉研究室に移り,工学部併設の工業短期大学部の機械科に入学した.担任は流体の長谷川正夫先生であった.3年になって就職時期となり,公務員資格を生かすつもりでいたが,資格はあっても大学を出てないといけない,さらに厳しい指導を受けて実力をつけないとダメだといわれ,淺沼先生の面接を受けることになった.

 

6.東京大学宇宙航空研究所

1965年の夏の暑い日,渋谷からバスに乗り,駒場に着いた.淺沼先生からは「何をやりたい」と聞かれ,エンジンと答えた.「レシプロはここではやれないが,・・・・」,「来たいなら何とかしよう」とお引受の約束をいただいた.実はこの「何とかしよう」の意味は大変であった.研究室技官に空籍はなく,技術補佐員,すなわち研究室経費で雇っていただくことであった.加えて上級資格相当の給料まで出していただき,現在の自分に置き換えても,とてもまねのできない事で,「研究室の皆様にご迷惑をお掛けした」ことに対する身の引き締まる思いは今でも続いている.

  東大では,当時助手及び大学院学生であった,難波先生の翼列実験や岡島先生の円柱周り流れの曳行水槽実験をお手伝いした.ここで冷汗百斗の大失敗をした.岡島先生の実験で圧力分布測定用の透明楕円翼を掃除中に過って折ってしまった.水の入替掃除中に透明であったことも災いしてモップで引っ掛けてしまったのである.製作費は当時のお金で100万円程度したと思う.深い自責の念にかられたが,岡島先生・淺沼先生ともにお咎めはなく,何とか修復できたのは慰めとなった.

  19693月,静止翼列における旋回失速の可視化実験,映像1(ISAS-RS)で3年から編入学していた東海大学第二工学部の卒業論文を書き,機械学会へも報告した.斉藤芳郎先生のご指導によるもので,竪型回流水槽を使った体力勝負の実験であった.前後してお手伝いした実験の映像も紹介する.映像2(ISAS-Wing)は,栗原利男先生の実験で火花追跡法により振動翼周りの流れを可視化したもの,映像3(ISAS-Buzz)は,当時修士学生であった長島利夫先生の実験で,インレットバスの高速度シュリーレン写真である.いずれも装置が大がかりで,関係者を動員して実験したものである.

1966年には旅客機の3連続事故があって航空安全予算が付き,高価なドイツ製ストロボキンが購入でき,これを使っての実験であった.また,石油危機や排ガス公害問題から自動車の排気浄化予算が付き,レーザーが購入できたなど,世の中に不幸があると工学研究が見直される機会が増える.皮肉な巡り合わせである.

この間,司測研から派遣されていた早川日出雄さんからの依頼で層流型流量計とその加工装置を設計製作した.前記の歯車の知識を生かし,波板成形用の歯車を実習工場で試作し,図書館の地下書庫から空気の物性値を探して取扱説明書も作った.これは自動車の排ガス規制に関連して大量に生産され,現在も販売されている.私の初めて世に出た仕事となり,これを使って群馬高専の川合一郎先生,淺沼先生との共著論文「層流形流量計による間欠気流の測定」となった.

 

7.雷

厳しく叱られるようにと,群馬大学で言われて来たのに,淺沼先生はいつも優しく丁寧であった.今から思うと研究所の所長や外部の激職の中で,細かいことまでは見られない状況であったのではないかと想像する.しかし,ついに二つの大目玉をいただいた.

一つは,「何を大切だと思ってんだバカモン!」と雷が落ちた.研究室で撮りためた各種可視化の16mmフィルムを編集するため,同僚の谷勝達哉さんと二人でそのタイトルを撮影していた.何本か撮り,最後の1本が2/3位残ってしまった.追加の撮影が必要か,あるいはタイトルバックに銀杏の撮影でもと思いながら現像に出さないでいた.コダックのXXXフィルムが高くて大切にしたい気持ちと,撮影したフィルムは夕方までに麹町の日本テレビ現像所に持ち込むと,翌朝までに上がるので気楽に考えていたのも失敗の元である.1-2日して,「できたか?」と問われ,「まだ現像していません」と答えたとたん,上記のお言葉であった.何を優先して仕事をするべきか,しっかりと身に染み着いた.

二つ目は,言葉は静かであったが,重みは百倍であった.インド工科大学から日本学術振興会の招聘研究者でバブさんが研究室に滞在中のこと,狭山で行われる航空ショウに「招待券があるから二人で行ってこい」,とのお話があった.週末に二人で出かけ,デモ飛行や機器展示を楽しんだ.これも1-2日してから,「行って来たか? 報告は?」と問われて気がついた.招待券は日本航空宇宙学会会長宛のもので,「記念品が付いていた」のである.二人で山分けした後なので,「使ってしまいました」と謝るしかなかった.これは一種のネコババであり,さらに事後報告を怠った罪は重大である.今でも思い出すたびに冷汗がでる.最近でも学生に「事後報告がない!」と叱るが,「私も昔はそうだった」とは言わないでいる.

 

8.数値計算の挫折

私のような田舎者に,博士論文提出の機会があるとは到底予想できることではなかった.しかし,環境は偉大であり,博士があたりまえの世界ではそれも不可能ではないように思えてきた.

谷田先生のご指導により,可視化実験と並行して岡島先生の粘性流計算プログラムをそのまま引き継いで円柱周りの熱伝達,すなわち「熱線流速計の動特性予測」を計算していた.当時の研究所には衛星計算用のFACOM230-75の大型計算機があり,通常計算費用の1/10程度で使い放題であった.パンチカードでプログラムを運搬する時代であり,計算は忍耐と肉体労働と思っていたが,ここでも計算の怖さを思い知った事件がある.計算結果がそれなりで,学会発表までしてしまったのに,どうも納得がいかない.プログラムを元の式に戻す作業を行った結果,ミスが見つかった.二つの+,−の符号違いが1年間の時間と100万円の計算費用を無駄にした.岡島先生の名誉のために説明を追加するが,先生のオリジナルプログラムにミスがあったのではなく,私の追加した部分に間違いがあったのある.大事故や人命にかかわることではないので救われるが,同じ作業をもう一年続けてやっと学会論文となった.

その後,シリンダ内旋回流の減衰特性の計算を続け,自動車研究所の英文誌に報告していた.当時,インペリアルカレッジのゴスマン先生がエンジン内流れの数値計算を始めたばかりであり,研究例の一つとして私どもの研究も紹介されていた.淺沼先生から,当時八田研究室におられた佐野妙子先生に数値計算,また航空学科の高田先生にはシリンダ内圧縮性流れの扱いを指導してくれるようにと紹介されたこともあった.しかし,メッシュの切り方一つで計算結果が大幅に変るので懐疑的になり,過去の大失敗も禍してデッドロックに乗り上げた状態となった.結婚したばかりの家内には,計算結果の出力データがお土産で,これを昼の間に図面にプロットしてもらっていた.当時は文句も言わず,よく努力してくれたものと感謝している.結果が実を結ばなかったのは申し訳ない次第である.なお,家内も長谷川先生経由で淺沼先生から紹介されたものであり,両先生には私的にも重ねて大変なお世話をおかけしたことになる.

 

9.レーザー流速計

計算の行き詰まりの中,チャンスを与えてくれたのはホンダCVCCエンジン開発責任者の八木静夫先輩である.八木さんは群馬大学での淺沼研究室の第1回卒業生である.発売されたばかりのケンブリッジコンサルタント社製のレーザ流速計(LDV)をお借りすることになった.価格は1974年当事で700万円程度であったと記憶する.今の価値に換算すれば一桁上である.CVCCエンジンの開発に関連し,副室と主室を結ぶノズルを通るトーチ噴流速度を実測し,特許で抑える計画の一環で購入されたものである.1974年に開始したレーザー流速計の応用研究は,前述の旋回流の減衰特性計測からスタートした.これはLDVの基礎を知る上で大変有効であった.しかし,本田技研の窓口担当研究者であった田中敦さんからは「困ったことになった」と後で聞いた.「エンジンの中を知りたいのに,水の実験を続けている小保方は何という神経か?」ということで,会社への報告が大変だったようである.

試行錯誤の連続で,念願の発火運転中のエンジン燃焼室内流速測定に成功したのは1976年になった.当時,排出ガスの53年規制に向けて,エンジンの燃焼改善が自動車会社の焦眉の急で,そのキーはガス流動制御にあると思われていた.当然,各社とも高価なLDVを購入して実験していたが,どこも意味ある成果は得られていなかった.既存の信号処理器にサンプルホールド機能がなく,流速出力結果がまったく理解できない状態であり,LDVは使えないものとの風評になっていた.こんな中「淺沼研で一人の助手が発火運転の測定に成功した」ことはビッグニュースとなり,ほとんどの自動車・電機メーカの関連研究者が見学に来た.しかし,皆さんは来てみてびっくりだったようである.当時の原動機部ではジェット及びロケットエンジン研究が中心であり,レシプロエンジン実験は「隠れ研究」であった.現実にも60号館の2階で,難波先生の遷音速翼列風洞の陰に,超分巻電動機でベルト駆動した汎用単気筒エンジンが置かれ,ダンボール箱で作ったサージタンクで散乱用の粒子を回流していた.辺り一面,関東ロームの微粒子粉で真っ赤であり,私の肺の中も同様で,体調を崩す元凶となった.これに懲り,講習会の講師などを務めた機会には,真っ先に粒子の扱いを注意している.

実験成功の秘訣は,測定窓の工夫,火炎中でも生き残る粒子の供給,それに有効な信号処理器にあった.他の機種であったらダメであったと思うと,この機種を選定した八木先輩には重ねての感謝である.これで博士論文が書けるかと,ひそかに希望を持ったのもこの頃である.なおこのLDV,回りまわった後,現在でも私の研究室で動いている「歴史的なお宝」である.

 

10.国際会議参加

群馬大学工業短期大学部へ出向(1978)の後,いくつかの実験をまとめ,米国自動車技術会(SAE)で「発火運転中のエンジン内ガス流速測定」論文を発表したのは19792月になりました.世界初と意気込んで出かけたのですが,GMらも同種の実験が同時報告され,「考えることは誰でも同じ」,「遅れなくて良かった」と感じました.稚拙な発表でしたが注目され,学会誌 SAE Journalに「日本の進んだ研究」として論文が転載されました.会員数25万人の学会誌に紹介されたのは「名誉なことである」とは,ずっと後になってから聞きました.CVCC機関の開発を同時に報告した八木さんには,発表練習から米国関連機関訪問まで,大変にお世話になりました.

この時が私の初めての海外渡航で,ホテル代りといっては大変失礼ですが,多くのお宅にお世話になりました.NASAに長期滞在中の清水優史さんを訪問し,夜は自宅に泊まりました.ロスアンジェルスでは淺沼先生のご長女,迪子様のご自宅に,デトロイトではミシガン大学の楊先生のお宅に泊まりました.学会終了後は,真冬で凍てついたデトロイトを離れて常夏のフロリダへ行き,バイオ燃料研究のベヅルーグル教授・滞在中の梶谷先生(茨城大)を訪問しました.ここでのホテルは先生と同室でした.当時は当り前のことですが,私は私費での研修旅行であり,先生は経費節減にあらゆる手段を使ってくれたことになります.その後,これを教訓に,遠方からの来客には自宅宿泊を勧め,学生と海外に行くときはホテル同室を勧めました.しかし,学生からは断わられることが多く,嫌われているのか,怪しまれているのか分りませんが,日本も豊かになったためと思っています.

 

11.忘れられない1985

群馬大学でもLDVを購入していただき,ヤマハとの共同研究の「2サイクル機関の管内流速の測定とシミュレーション」では日本機械学会から論文賞(1985)を受けました.博士論文「レーザ・ドップラー流速計による火花点火機関内ガス流動の測定に関する研究」を,淺沼先生のご指導により,東海大学に提出したのも昭和60年(1985年)でした.論文の書き直しは前後6回余に及び,その都度原文が見えないほどに丁寧な校閲をいただきました.決して手を抜かない論文指導は「教授の鑑」と思っております.当時は前述のように体調をこわしており,予備審査では先生に荷物まで持っていただき,青息吐息で臨みました.幸いにも論文賞も内定していたので,気分的には余裕をもつことができ,無事に発表を終えることができました.

淺沼先生にとっても1985年は大変な年でした.国際エネルギー機関(IEA)燃焼研究の第7回課題担当者会議が東京と京都で開催され,研究者だけでも外国から31名,国内から16名の参加がありました.特に外国からは著名な燃焼研究者が集まり,記念写真(山本芳孝先生撮影)にみる盛況でした.同時に第1回「内燃機関燃焼の診断とシミュレーション」の国際会議,いわゆるCOMODIA-85が開催されました.これは関連研究者にとって最も重要な国際会議となり,毎回日本で開催されています.

これら,IEAの課題担当者会議,リスボンのレーザー会議を機会に多くの外国研究者を知ることができました.また,ドイツのエアランゲン大学にはダルスト教授・トロペア教授のお世話で客員研究員として招かれ(198788),レーザー流速計の応用研究に一層打ち込むことができました.

 

12.三代目

 平成元年(1988年)に所属していた工業短期大学部は工学部と合併し,「エネルギーシステム工学」の大講座に所属となりました.その後,各種のめぐりあわせの結果,1993年にエネルギーシステム第2研究室の教授を拝命しました.この研究室「熱研」は,初代教授が淺沼先生,二代目が倉林先生と著名教授が続き,恥かしながら三代目が小保方となった次第です.もちろん学内では何代目とかいうことは一切関係ありませんが,こんなシナリオは誰が考えたのでしょうか? 一種の奇跡としか言いようがありません.私としては「流れに身を任せていただけ」であり,何とか研究室を維持し,優秀な次世代に譲りたいと願っています.

淺沼先生の膨大なお仕事の一部を継続することもできました.先生が始められた,日本機械学会の「レーザー計測とシミュレーション」の研究分科会主査を4年間務め,現在は国際エネルギー機関(IEA)日本委員会(JECC)議長を務めています.いずれも淺沼先生の築かれた人脈,東京農工大学の大沢先生,慶応義塾大学の前田先生などのご支援によるものであり,「先生の手のひらに乗っている孫悟空」の域を脱しているとはいえません.同時に,淺沼先生の流れの下で,谷田先生,岡島先生,長島先生等の皆様には今でも密接にご指導をいただいており,改めて感謝の意を深くしています.

 

13.熱工学研究会

熱工学研究会は,先生が当時の機械試験所第三部長を併任されていた昭和42年(1967年)より開始され,平成15年(2003年)12月まで,37年間にわたり254回を数えた研究会である.試験所所員と大学教員の研究活性化と近隣企業や内外研究者との情報交換が目的であった.外部発表前の生データを元にして議論し,論文には示されないノウハウを学び,関連研究者を知る大変有効な研究会であった.先生のご意見もあり,昨年で閉会となったが,新しいメンバーで再構築して近く再発足する予定がある.研究会の詳細は群馬大学のホームページに紹介してあるので,ご参照下さい.http://www.me.gunma-u.ac.jp/ene2/TE250.html

添付の写真は2002年の第250回研究会,及び2003年の最終回研究会の記念写真である.

 

14.まとめ

  まだまだ書いておきたい思い出話は尽きないのですが,あまりに私的なことを連ねるのは皆様のご迷惑です.また,書きたいことの多くを仲間の皆さんが紹介してくれました.

  淺沼先生には重ねて感謝の御礼を申し上げます.また,大学では「Laser」,自宅では家内「玲さん」(二つの発音は偶然にもよく似ています)には,1974年から30年間もまったく同様にお世話になっており,深い因縁を感じています.「これが苦労の元」などとは決して思わず,「私を育ててくれた恩人」と記して感謝し,まとめとします.                       

200498日.

 

15. 追加補足 最後に幾つかの群馬大学での話題を追記致します.
15-1   研究と学生指導
 エネルギー第2研究室のスタッフは志賀聖一准教授,荒木幹也助教,中村壽雄技術専門職員であり,プロジェクトに応じてエネルギー第4研究室の石間経章准教授とも共同研究を行いました.その結果,学生,大学院生,客員研究員を合わせると50名ほどの大所帯となり,大変にぎやかとなりました.小保方の担当した博士修了生は,細谷肇(1993),隆武強(1994),Ismail(2002)西川剛弘(2003),野村友和(2004),高橋易資(2006),馬場泰一(2008),鈴木秀和(2008)等であり,Waleed2006,カイロ大学)と張俊強(2006,西安交通大学)は研究室での実験を元に母国で学位を取得しました.小保方は「エンジンのLDV計測は自分でものにした」という自負があり,学生が難儀している計測も私がやるとできるので“Gods hand”とかいわれていた.しかし,ここ数年は視力と技量が衰え,私が手を出すとかえって具合が悪くなる例も増えたので「口出しはするが余分な手出し」は控えている.それでも多くの卒業生を送り出し,論文を出版できたのは優秀なスタッフと学生達の協力によるものであり,深く感謝しています.
15-2   学内委員会
工学部内で指名され幾つかの委員長を務めた.教務委員長(1999),工学教育検討特別委員会委員長(1999),JABEE協議会議長(2003),施設環境整備委員長(2005),国際交流・学生支援委員長(2007)などである.当時の教務委員長は入試委員長を兼ね,さらに工学教育の国際化(JABEE)に対応したので,三つの委員長を兼務した形であった.JABEEに関連し工学基礎科目の名称変更交渉に出向いた荒牧キャンパスで発熱し,一週間寝込んだ.この時の無精ひげを記念に残し,自己規律の象徴にしている.また,今年度担当した国際交流・学生支援委員長も仕事が多く,学科の就職担任とも重なり,最終年度が私にとって最も多忙な一年になったように思います.ここで応募した経産省と文科省の公募事業「アジア人財資金構想“ものづくり”プロジェクト」の採択は大変に幸いであった.定年後もこのプロジェクトを続けるように命を受けましたので,引き続きよろしくお願い致します.
15-3   学外と学会活動
 学会所属は1964年に学生会員で入会した日本機械学会,1975年に加入した自動車技術会,1985年加入の国際自動車技術会(SAE)での活動が主であり,この三つの学会からFellow資格を受けました.また,可視化情報学会には設立前から関係したのは前述の通りです.日本機械学会のRC研究会,エネルギー学会内のJECCIEAの燃焼改善研究会日本委員会」活動,姉妹校交流等で在職中の海外出張が78回となりました.これらの縁で大連理工大学,西安交通大学,大連工業大学から客座教授の称号を受けました.群馬大学関連では,倉林名誉教授の「群馬地区技術交流研究会」,根津名誉教授の「北関東産官学研究会」を通じて,地元企業との交流が深められたことも私の大きな財産となっております.
15-4   流れのままに浮沈み
 私の学生への助言は「思いついたら挑戦せよ,二者択一なら難しい方,興味深いほうを選べ」としている.その理由は前述したように挑戦して負けた場合は「実力不足で仕方がない」と諦めがつき,次の目標に向って努力できます.これは私自身の経験法則でもあり,挑戦して負けて「沈んだ」経験は無数にありますが内緒にしておきます.流れに乗って「浮いた」ことも幾つかありました.国家公務員採用試験上級職試験(甲)合格(1964),日本機械学会論文賞受賞(1985),博士号取得(1985),SAE Fellow 認定(2007)等がこれにあたり,私の人生を変える節目にもなったように思います.応援していただいた先生方,大学と職場の先輩,仲間と同僚,後輩,支えていただいた関連会社と学会の皆様,多くの苦労を共にした卒業生各位と家族に感謝し,結びと致します.

2008329