「あの日」の事

 俺が最初にその事実を知ったのは、友人からの留守番電話だった。何気なく聞いたその録音の中で、彼女は慌てた様子でこう言っていた。

「コージーパウエルが死んだって本当ですか?」

「何で敬語なんだよ」と思いつつ、その内容については鼻でせせら笑っていた。「どうせバイク事故で怪我したっていう話から伝言ゲームで出来上がった、くだらない噂だろう」そんな風にしか考えられなかった。 しかし、「コージーが死んだ」と聞いた瞬間の心臓の動悸と、「もし本当なら...」といった一抹の不安を抱きつつ床に就いたのもまた事実である。

出会

 俺がコージーに出会ったのはいつ頃だったろうか。88年頃には名前くらいは知っていただろうか。中2だったっけ。ちょうど、俺が音楽情報を得るメディアが「MUSIC LIFE」から「BURRN!」へ、「ベストヒットUSA」から「PureRock」へと変わっていく時期だ。いわゆるビルボード的な音楽嗜好から、 −当時ヒットチャート的にも全盛を極めていたが− よりコアなHM/HRへと向かっていこうとしていた時期である。最初にプレイを聴いたのはCINDERELLAのアルバム「Long Cold Winter」だが、当時はコージーが叩いているとは意識していなかったし、その事実を知らなかったかもしれない。最初に動く姿を見たのは89年、ゲイリームーアの”After The War”のビデオクリップだったと思う。ドラムを叩いたこともなかった頃なので、特に何とも思わなかった。

 しかしその数ヵ月後、中3になったばかりの頃に見た、BLACK SABBATHの”Headless Cross”のビデオクリップはかなり印象に残った。イントロでのアクションをはじめ、曲全編にわたって目立ちまくるその存在感には圧倒された。かといってすぐに「カッコイイ」といってファンになった訳でもないのだが。それでもコージーパウエルという男の存在を心に刻み込んだのは確かだ。

すばらしき日々

 高校に入学し、ドラムを始めた俺が練習で使うテープ(練習といっても曲に合わせて叩くだけだが、これが無性に楽しかった)には、音楽的嗜好からか、それともそのプレイスタイルが本能的に好きだったからか分からないが、無意識のうちにコージーが叩いている曲ばかりが収められていた。”Kill the King”、”Long Live Rock'nRoll”、”All Night Long”、”Gambler”、”Slow 'n Easy”等レインボー、ホワイトスネイクのナンバーの他にも、そんなに好きではなかったシンデレラの”Fallin' Apart”でさえ、一緒に叩くとこの上ない気分にさせられたものだ。

 「俺は本当にコージーが好きなんだ」と実感したのは、ホワイトスネイクの83年モンスターズオブロックのライブビデオを見た時だ。その映像に写されていた圧倒的な躍動感、パワー、そして猛烈なカッコよさは、普段物事にあまり心を動かされない俺の心に火をつけた。とにかく熱狂した。どんなに落ち込んだときでも、コージーのプレイしている姿を見るだけで元気が沸いてきた。

 その後俺は、時間さえあればレインボーやホワイトスネイクのアルバムを聴き、ビデオを見、そのプレイスタイルを真似ようとドラムを叩いていた。青春時代はまさにコージー中心と言っても過言ではないような生活だったように思う。そして、特に目標もなかった俺に「いつかコージーのライブを生で観たい」という目標(夢)が掲げられた。他人から見れば、なんて小さな、くだらない目標だと思われるかも知れない。しかし俺にとってはそれがすべてだった。

 考えてみれば、この頃が一番幸せだったのかも知れない。常にネガティブで人前でも一人のときでもはしゃぐようなことがない、何をやっても嫌な事を忘れられない俺が、唯一我を忘れて熱狂する。それがコージーのライブだと、そう思っていた。そんな日を楽しみに出来たのだから...。

焦燥

 レインボー〜MSG時代の、コージー人気絶頂の頃に青春時代を迎えた世代ではないので、周りにコージー好きがいるわけでもなく、またコージー自身も頻繁に来日していた頃と比べ活動自体が地味になっていたため、俺が信者になってからはコージーの話題が極端に乏しかった。終了してから知ったヤマハドラマーズキャンプ、くだらない理由で見逃したブライアンメイの来日公演。楽器フェアにも来ていたらしい。もっとアンテナを張り巡らしておけば、あるいは遭遇するチャンスはあったのだろう。しかしコージーを生で観る機会を迎えられないまま、時間ばかりが経過していった。その時を夢見ながらも、「本当にコージーのライブを観れるのだろうか。もしかしたら...」と、持ち前のネガティブシンキングからそんな不安がよぎることもあった。

 大学を卒業し、社会人になっても俺のコージー熱が冷めるはずもなく、仕事のために与えられたパソコンを覚えるついでに「コージーパウエル賛歌」なる駄文を綴ったりしていた。「もしコージーが来日したら仕事を休んででも観に行く! 休めなかったら会社を辞めてもいい!」などと一人で無意味な決心をして息巻いていた。

 そんな中、「コージーパウエル、イングヴェイマルムスティーンのアルバムに参加!」の朗報。アルバムが発売され、BURRN!にイングヴェイと二人で表紙になった頃から日本ツアー参加も現実味を帯びてきた。「こっ、これはぁ...」。武者震いがした。ついに永年の夢が実現する!

 来日公演は翌年4月に行われることになった。当然のごとくチケット入手。「本当に来るかどうか、蓋を開けてみないと分からないよ」冗談まじりにこんな事を言っていたが、内心「今度こそ」といった、無根拠だが確信に近いものを得ていた。

SUNSET

 翌朝、通勤時に聴くヘッドホンステレオでは「RAINBOW ON STAGE」が鳴っていた。「コージーが死ぬはずないよ、嘘に決まってる!」少年の様に自分自身に言い聞かせながら会社に向かう中で、”Catch the Rainbow”が悲しく聞こえた。

 今回のイングヴェイの来日公演でコージーが来ないことは、1ヶ月前から知っていた。「バイク事故?お約束の喧嘩別れじゃねえの?」 確かに残念だった。物凄く残念だった。自分は何をやってもうまく事が運ばない、などと落ち込んだりした。しかし、もし本当に怪我をしてたとしてもまた復活すると思っていた。以前にもそういうことはあったし、ブライアンメイと一緒にまた来てくれるだろう。そんな風に考え、自分を納得させていた。

 会社に着くなり、最近見つけたコージーのオフィシャルサイトにアクセス。英語なのでしばらく理解できなかったが、そこには”dead”の文字が。”dead by car accident”そんな風に書いてあったように思う。鼓動が早まった。コージーの死というものがいきなり現実味を帯びて襲ってきた。

 それから数時間の記憶はほとんどない。死を知った直後の朝礼では、ショックのあまり何がなんだかわからず、鼻水を垂らしながら訳の分からない事を口走っていたらしい。それでも、コージーの死を信じたくない一心から「ひょっとして冗談かも。ちょっと遅れたエイプリルフールだよ」などと可能性のほとんどない仮説を立てたりした。まったく行くつもりはなかったが、本当なら夢を果たせるはずだったイングヴェイのコンサート会場にも足を運び、「いきなりコージー出てきたらビックリするなあ。そんな訳ないか。いや、でもひょっとして...」淡い期待というより、ほとんどまともに思考回路が働いていなかったようだ。

 その後、PowerRockTodayの1曲目に”Stargazer”がオンエアされ、マスメディアの発信した情報で事実を確認した。今でこそ冷静でいられるが、あの頃の数日間、いや数週間は本当につらかった。何度も何度も、夢を果たせなかったことを悔やみ、コージーを、彼のプレイを好きだからこんなにつらいんだと、音楽を一切絶った時期もあった。

 たとえ日没を迎えても、日はまた昇る。コージーがいなくなっても彼の残したすばらしい音楽は生き続ける。ついに彼には会えなかったが、作品にはいつでも触れる事が出来る。これからもずっと、彼の作品に接し続けていきたい。

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