・・・というよりカネゴンの独り言と愚痴のページ

2000年10月のページ

2000年
(平成12年)
10月10日(火)
悲しき出費

 『1年で最も雨の少ない日』という事で10月10日を『体育の日』と決めた
らしいが、確かに今日は天気が良かった。しかし祝日の変更で昨日が今年
の体育の日となっていたようだが、あいにくの雨であった。たった1日しか
違わないのに・・・。何だかニュースで雨の中での体育行事を見ていたら気
の毒になった。
 それにしても女子マラソンの高橋尚子選手は、連日いろんなところに出ま
くりですナア。オリンピックから休み無しで相当疲労がたまっているのではな
いかと思うけど、いつもニコニコしている。大したもんだ。

 今日愛車ハリアーの純正(ディーラーオプション)のゴミ箱を交換してきた。
蓋が壊れてしまったからである。というか壊したのは私ではない。
 今年の4月頃だか、一度私が蓋を壊してしまった。開きっ放しになってしま
ったのである。ディーラーに持っていったら、
『普通の力で閉めていただければ、こんなことにはならないのですが・・・』
と言われてしまった。その頃私は電子ジャーの蓋も壊してしまっていたので、
自分の馬鹿力に腹を立てつつも、以後努めて製品には愛着を持って蓋を優
しく閉めるように心がけてきた。ところが間も無く、助手席に乗った私のボー
トの後輩がまたも壊してしまった。
『あ〜あ〜、直したばかりなのに・・・』
 まあいいかと思ってそのまんまにしてた。ボートの試合で忙しかったのも
あるが、また無料で直ると思っていた私が甘かった。先週定期点検でディ
ーラーに持っていったら、
『お客さん、バネが飛んじゃってます。コレ直りません。』
『へ?』
なんと例の後輩は私よりも強い力で蓋を閉めたらしい。
『取り替えないとダメ?』
結局新たに取り寄せた。・・・結構な値段がするんですネ、ディーラーオプシ
ョンって。ぐすん。
 ちなみにその後輩は女性である。

2000年
(平成12年)
10月9日(月)
危ない栃木県

 栃木県は一家当たり自動車の保有台数が全国で1位だか2位だと思った
が(そのどちらかはお隣の群馬県)、車の運転が乱暴なのも定評がある。他
県から来た方が走ると、随分怖い思いをするらしい。
 先日も片側2車線の道路の中央の方を走っていたら、左車線から突然花屋
のオネエチャンの軽自動車がウィンカーも出さずに割り込んできた。車間距離
も無かったので冷やっとしたが、地元の花屋さんでは無いようだ。
 私が今まででイチバンびびった経験は、私の前を走っていた軽1BOXのオ
バチャンが、右へウィンカーを出しつつ左へ曲がっていったことである。
『右へ曲がるんじゃ左へ寄ろうか』
と予測していた私の前を突然ふさがれて、非常に怖かった。
 ここ栃木では女性の運転の方が怖い。

 今日とうとう千代田生命の経営破綻が報道された。随分前から噂にはなっ
ていたが、噂がついに現実の物となった。
 以前週刊誌で見た『危ない保険会社』の4番目だか5番目までがつぶれた
ことになる。次は大丈夫だろうか?

2000年
(平成12年)
10月8日(日)
HPカウンター50000達成!

 ついに昨日『カネコ木工HP』のトップページのカウンターの数が50000
を超えた。まあカウンターの数が増えさえすればイイってもんでもないのだ
が、とりあえずはひとつの目標にしていた数字だけにウレシイ。ちょうどヤ
フー登録にもなっただけに、今後は一般の方々にバックロードを理解して
いただけるような方向にページを充実させていこうと思う。
 『バックロードって何?何であんな面倒な構造しているの?』
と思う方がほとんどと思う。私の家を訪問して私の部屋でバックロードホー
ンスピーカーを見た人(間違い無く全員)が、
『何でこんなところに穴(ホーン開口部)が開いてるの?』
と尋ねてきた。・・・ただ若干1名だけ
『この穴ゴミ箱?ゴミ捨てていい?』
とマジでスピーカーの中にゴミを捨てようとしたトンデモナイ人間がいた。
まあ栃木県のボート関係者であれば、それが誰であるか大体の想像は
つくであろう。

 ところで先日大変興味深い本を入手した。先月出たばかりでちとタイトル
が長いのだが、

『ほったらかしでも儲かった!
 年間3万円で成功したスーパーインターネット通販
 岩上誠・著 神田昌典・監修 フォレスト出版 定価1500円+税』

これだけ見ると怪しげなタイトルに思えるが(事実私はそう思った)、実際に
インターネット上のホームページを利用したネット通販において成功した著
者が、初期の失敗談も含めて(ここが重要)丁寧に過程を描いている。そし
て現在発売されている数々のネット通販のハウツー本のやり方に異議を唱
えている。
 私も今後のページ展開に非常に参考になった。

2000年
(平成12年)
10月7日(土)
企業の責任

 私の大学の時の同級生がT自動織機鰍ノ勤めている。というかT自動車
の前身といったほうが早いかもしれないが。
 以前彼が栃木へ遊びに来た時(といっても随分前の話だが)
『うちは自動織機部門は完全に赤字なんだけど、産業が無くなっちゃうから
 作ってるんだよ。まあ自動車の方があるから・・・』
と語っていた。現在どうなっているか知らないが、なるほど(多分)1社しか
無ければ止めるに止めざるを得ないのだろうとその時思った。
 
 現在大手スーパーの閉店が相次いでいる。問題になるのはその地域経
済と消費者である。恐らく大手スーパーが出店した際に地元の商店街に
は大変な打撃になったに違いない。閉店に追い込まれたお店も多かったで
あろう。
 しかし地元商店街をつぶした大手スーパーが無くなってしまったら、消費
者はどこで購入すれば良いのか?
 ・・・と昨日のボートの集まりでこんな話になった。バブルの勢いでただた
だ拡大することにのみエネルギーを費やし、利益が無くなるととっとと閉店。
誠に勝手な話だと思わざるを得ない。

2000年
(平成12年)
10月6日(金)
佐野高校ボート部、私のある先輩

 何だかこのDiaryはスポーツとボートの話ばかりになってるな・・・。まあ
しゃあないか。

 最近私の家族で行き始めた近くのラーメン屋さんがある。ご主人の了解
を得ていないのでY店としておく。昨年の今ごろ開店したから丸1年になる
が、いつごろからか父がちょくちょくお土産の餃子を買ってくるようになり、
その後家族で行くようになった。すばらしく美味しい手作り餃子と手打ちラ
ーメンのお店である。
 いつだか私がカウンターで食べていると、
『まだ佐野高校ボート部やってるの?』
とご主人に聞かれた。やっぱりこの方は私のひとつ先輩のI先輩であった。
『T先生元気?せがれもボートやってるんだよな?』
 高校を卒業してからも佐野高校ボート部のことを気にかけてくれているの
がとてもうれしかった。
 後日5月のゴールデンウィークの時だったと思うが、T先生に聞いてみた。
『先生、Iさんのこと覚えてますか?』
『おお、覚えてるよ。
 アイツはさあ、大変だったんだよ。ボート部にも少ししかいなかったんだ
 けど、アイツは高校の時にご両親をいっぺんに交通事故で亡くしちゃった
 んだよ。
 そうかあ、ラーメン屋さん開いたのか・・・』
と遠くを見るような眼差しで、懐かしそうにお話しになった。この時両親の
おかげで大学に行けた自分がつくづく幸せな奴だと思った。同時に一刻も
早く恩師であるT先生をY店に連れて行かねばと思った。
 ボートシーズンでなかなか日曜日がつぶれてしまったが、9月30日(土)
の午後、オリンピックのボートのビデオを見るのが目的でT先生が私の家に
やってきた。やっとY店にお連れすることが出来た。
 普段あまり感情を表に出すことのないT先生なのだが、
『おお、こりゃ本当に美味いネエ! ホント美味い、美味い』
と声に出しながら食べている。それだけでもうれしかったが、少し経ってから
ご主人のI先輩が厨房から出てきて、
『先生、18年ぶりですね!』
と両手でがっちりと握手をされた。
 本当に私は感動してしまって、涙がこぼれそうになってしまった。そして
何だか肩の荷がひとつ下りたような気がした。
 I先輩はあまり他のラーメン店での修行時代の話をされないが、高校時代
から大変なご苦労をされたに違いない。それこそ私の火事の後の苦労など
とは比べ物にならないだろう。
 その夜、ボートの後輩からもらっていたメール(Y店宛て)をプリントアウトし
てお届けすることが出来た。

 その大事な佐野高校ボート部がチトやばい状況。何とかせねば。・・・と
思って何か話をしようと思って、昨日練習やってる渡良瀬川に顔を出したら
誰もいない。
『おいおい、どうしたんだよ?』
と思ったら試験前で部活が休みとの事であった。ホッ!
『何かあったな・・・』
と思って居間を探していたら日本ボート協会から届いていたポスターが2
種類出てきた。そういや「がんばっていきまっしょい!」のPRを兼ねたポ
スターもあったハズだが、どこか行っちゃったかな?
 あれば貴重なものだが、もらった当初あの映画に全く無関心だったもの
で・・・。

2000年
(平成12年)
10月5日(木)
ナゼに私がボートに関わっているか

 昨日書いた『部を止めた』1年生の佐野高校のボート部員は、片や膝痛
片やボーイスカウトが理由だったらしい。膝痛の方は他人事では無い。か
くいう私も膝が痛くてボートを止めたくて仕方無かったからだ。
 『オスグッド病』という膝の下に骨が出っ張ってしまう病気。いわゆる成長
障害なのだが、私の場合実は中学校で陸上をやっている時に既に発病して
いた。ただ最終専門競技が投てき(砲丸投げ)でそれほど膝を酷使しなかっ
たのと、負荷をつけてのウェイトトレーニングを行わなかったために全くといっ
ていいほど痛みは出なかった。
 ところが高校でボートを始めたらもろに膝を酷使する。とたんに悲鳴を上げ
てきた。1年生の秋口の新人戦ではボートを降りていたのである。寒さの厳
しい冬場に入って痛みは激しさを増し、体育の授業にも出られなくなり歩くの
も困難になっていた。
 手術をする場合は出っ張ってしまった骨を削るらしいが、医者の見解では
動けなくなる期間が長くなるため、高校生で部活をやっている生徒には手術
は勧められないとの事であった。
 2年生の春になって部活には復活したものの、痛みは相変わらずであった。
痛みもそうだが、膝の動きが悪いのには本当に参った。ピッチを上げた時に
ついていけなくなるのである。
 意を決して1学期の期末テストの時に顧問のT先生に告げに行った。
『先生、膝が痛くてボートを続けられません!』
『まあ、様子見てやってくれや!』
『ハア・・・』
 そして迎えた夏の国体予選関東ブロック大会で我がクルーは惨敗したので
あるが、ヤケクソな気持ちで片付けをしていた時に栃木代表で国体出場権を
勝ち取ったS先輩(早稲田大学ボート部OB)から、
『金子君 T先生に聞いたけど、膝痛いんだって?
  だけど止めちゃダメだよ。ボートは最後まで続けなきゃダメだよ!』
と言葉をかけていただいた。

 ナゼに自分が高校時代ボートを続けたかというと、このお2人の言葉があ
ったからである。そして高校卒業時点で
『もうボートに関わることはあるまい』
と思っていたが何だかんだと栃木のボートに関わり続け、現在協会の事務
局になってしまった。人生って不思議なもんである。
 

2000年
(平成12年)
10月4日(水)
佐野高校ボート部、ある自殺した後輩について

 昨夜栃木県ボート協会HPの掲示板に佐野高校ボート部の部員からSOS
の投稿があった。3年生が引退してから2年生:2人、1年生:2人の合計4
人という少人数で活動を続けてきたが、1年生:2人が止めてしまったという。
「ボートが嫌いになったわけではない」との事なので、恐らく勉強を理由にし
たものだと思う。
 佐野高校というのは進学高校なので常に追試&課外補習との戦いとなっ
て、部活動特に運動部をやっていくには大変な面が多々ある。ただ私の現
役時代からOBになってからも含めて、「勉強」を理由にして止めていった部
員で、成績が伸びた人間を見たことが無い。
 もうひとつは「高校での運動部離れ」が加速していることで、私が佐野高校
にいた時には8割以上の生徒が部活動を行っていたのが、現在では2割弱
に落ちているという。要するに部活動をやっていない生徒がほとんどなので
ある。この事からもボート部の人数が少ないといって特に驚くことでもないの
だが、部員が2人というのはかなりヤバイ状況には違いない。

 昔の話になるが、佐野高校ボート部第11期OBのSから突然電話があり、
『金子さん、Kの事覚えてますか?』
と言うので一所懸命思い出して、
『アア、あのCOXやってて1年生の新人戦で止めちゃったヤツだろ?』
と答えたら、
『そうです。アイツ自殺しちゃったんですよ!』
『エ?!』
 お通夜でご両親に伺った話では、彼は1年生の秋口にボート部を止めて
しまったのだが(やはり勉強が理由)、その頃から孤立感を強めていったと
いう。確かにおとなしくて部の中でも目立つ方ではなかったが、とにかく周
りが明るくて元気な連中だったので、引っ張られて楽しくやっているように
見えた。
 以後高校時代にはクラスの中でも特に親しい友達は作れず、徐々にノイ
ローゼ症状が出だしたという。そして大学への現役合格に失敗した彼は一
浪して予備校に通うが失敗。二浪目は自宅で勉強していたらしいが、
『大学へ合格しなければ佐野高校の時の友達にも会えない』
と、どんどん自分を追い込んでいってしまったらしい。
 ノイローゼの発作で自宅で首つりをしてしまったのである。
『あのままボート部を続けていれば、こんな事には・・・』
とお父様はおっしゃっていたが・・・。
 『ボートなんかやっていて帰りが遅くなるから、こんなに成績が悪いんだ!
 何のために進学高校に行ってるんだ! 
 ボートなんか止めてしまえ!』
という会話が家庭で交わされて、ボート部を止めていくパターンがほとんど
である。そして止めてからどうかといえば、部活をやっていた午後4時〜午後
7時の時間を勉強に当てるかというと、まずそんなことはしない。
 帰宅してテレビを見るかTVゲームをやってしまうのが大半である。そこで
生活のペースが怠けてしまうから、夕食後に勉強をやるかというとそれ程
集中してやらないことになる。だからかえって成績が落ちてしまう。
 マア全ての生徒がそうとも言えないだろうが・・・。

 長い人生において大学へ行くことが全てでは無いハズである。ただ私も
そうであったが、あの受験戦争においてはそんなことを考える余裕は無か
った。
 もう少し進学指導において「違う道もあるんだよ」的な、生徒の気持ちに
余裕を持たせるような指導は出来ないものだろうか。最近の男子高校生徒
を見てると非常におとなしくて活発な面が無くなってきている。前出のK君
のような生徒が後々また出てこないかと心配でならない。

2000年
(平成12年)
10月3日(火)
マイナー競技

 ボートの決勝が終わってしまってからは余りオリンピックも見なかったの
だが、民放の特集を見ていて大変印象に残る場面があった。
 銅メダルを獲得したテコンドーの岡本選手。メダル獲得後のインタビュー
がすごかった。もう本当に顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくりながら、
『理事長さあ〜ん!社長さあ〜ん!やりましたあ〜!!』
この最初の『理事長さあ〜ん』の言葉がとても共感するのです。テコンドー
もマイナー競技で、今回のオリンピック初参加に至るまでの過程は相当大
変だったハズ。恐らくテコンドー協会全体でのバックアップもかなりものもん
だったでしょう。
 ボートも完全なマイナー競技。今でこそ何とかまともに運営しているけど、
私が大学を出てすぐのころには新年会の時に出席者から寄付金を集めて
た。それくらいに運営資金が無くてビンボーだったのですネ。
 栃木県ボート協会を作られたのは、橋さんという早稲田大学ボート部OB
の方。若くしてお亡くなりになられてしまったのですが、奥様が新年会にご
出席されています。
『ホントにうちの主人は仕事もしないでボート、ボートってボートばかり。
 だけど初めて体育協会から30万円の予算をもらってきた時には、本当に
 大騒ぎでした。』
 この話を思い出す度に私もボートをしっかりやらねばと思うのです。

2000年
(平成12年)
10月2日(月)
かつてのオリンピック

 今朝(いつも配達されている)地元の下野新聞が来ないという珍事件が
あったが、遅れて配達されてきたその一面に評論家の川本三郎氏の
『国家から個人のスポーツに』
というタイトルで興味深い記事があった。
 かつて国家の威信と名誉をかけてオリンピックに出場していた時代が
終わり、「かつての『国家のスポーツ』の時代に悲愴感はもうどこにもない。」
と結論付けている。
 そうしたらタイミング良くと言うか、午後3時ごろからNHK総合で
『前畑ガンバレ ベルリンオリンピックの光と影』
という番組をやっていた。ベルリンオリンピックはナチスドイツ率いるヒトラー
が、まさしく国家の威信と名誉をかけたオリンピックの代表的なものであっ
た。日本も軍国主義真盛りの時代(この後日・独軍事同盟が結ばれる訳
であるが・・・)、まさしく前畑選手は日本のために金メダルを獲るために泳
いでいた。
 『金メダルが獲れなかったら帰国する時の船から身を投げて死のう』
と決心していたというから、恐ろしいばかりである。
 現在の平和な時代としては信じられないことだが、当時の軍国主義の時
代背景がそうさせていたのかもしれない。

 現在は統合されているが以前の東ドイツはものすごくスポーツが強かった。
陸上、水泳、・・・、ボートもまた然り。聞くところによると国の方針でスポーツ
をやらせて(ということはヒトラー時代のナチスドイツと同じ?)いたそうで、
適正検査みたいなのをやってスポーツを振り分けていたらしい。
 『東独時代のボート』
というのはムチャクチャ強かった。ただ単に体力があっただけではなくてその
漕ぎもスバラシク美しく、その漕ぎを一度でも見たら言葉を失うほどの感激も
のだったらしい。・・・恐らく練習量もすさまじかったろうと思うけど、残念なが
ら私は見ていない。
 何でこんなことを書き出したかというと、今回のシドニーオリンピックのボー
トの決勝レースを見ていて、技術的に見るべきクルーが無くてガッカリしてし
まったから。スンゴク漕ぎが雑なんだナア・・・。

感激!!ついにヤフー登録!

 午後6時ごろiモードがメール着信でブルブル(常にマナーモード)。
『ボートの後輩のOかな・・・』
と思って内容を見るとそこにはナ・ナ・何と、
『Yahoo!Japan!』
の文字が・・・。え!もしかして・・・。
 このメールの送信者を見るのは『栃木県ボート協会のHP』登録
以来2度目。そうなんです、ついに『カネコ木工のホームページ』が
ヤフーに登録されたのです!!
 「やった〜!!」
とガッツポーズで雨の中ひとりで小躍り。
 何しろ昨年8月のHPアップ以来、ヒマがあれば登録申請していたので
その回数は10回以上。最近のヤフーは非常にHP登録が厳しくなっている
事を聞いていたので半ば諦めておりましたが、ついに念願達成です。
 KD−100がFMfanに掲載されても、HPが小学館「ラピタ」に掲載され
ても足りなかったもの、それがHPのヤフー登録だったのです。
 ついにヤッタゾ!!

2000年
(平成12年)
10月1日(日)
KD−S10000完成&
シドニーオリンピックのカネゴン的感動ランキング

 昨夜はこのHPを書いてから、明け方4時頃までCDを聴いていた。という
か毎回恒例なのだが、私は新作スピーカーが出来るとほぼ徹夜で普段聴
いているCDを聴いてしまう。
 私は測定器を持っていないので自分の好みと聴感優先。1曲目でダメと
思ったら速攻で焼却炉行き。そんでもって今回の新作:KD−S10000は
今までで最高のスピーカーとなった。・・・マア2本で48万円になるから、
良くないと困るのだが。
 実は昨年発表したKD−100を超えるのは容易でなかった。KD−100
は『なるべく小さく、安く』というコンセプトで設計・製作したのだが、音も非常
にバランスが良くて大成功となった。昨年同時期に製作した試作2号機は、
中高域のエネルギーはスゴイのだが低音が不足していて、全体のバランス
は明らかにKD−100に負けていた。
 今回発表のKD−S10000(製品バージョン)は、音では全ての面でKD
−100を超えたと思う。くわしくはこちら


 ところで本日シドニーオリンピック終了。男子マラソンは日本は全く振るわ
なかったナア・・・。以下カネゴン的シドニーオリンピック感動ランキング。

第1位:ボートの男子軽量級ダブルスカルで日本初の決勝進出
 
やっぱボートやってる人間にとってはこれ以上の感動は無かった。


第2位:柔道100kg級の井上選手金メダル獲得
 決勝までオール1本勝ちという圧倒的な強さもさることながら、表彰式で
お母さんの遺影を高々と掲げるシーンは何度見ても感動的。

第3位:開会式で南北朝鮮選手同時行進
 日本から動き出したという『Koreaはひとつ』のメッセージの発信は、
オリンピックのひとつの意義を見出したと思う。

第4位:陸上競技のフリーマン選手

 オーストラリア原住民「アボリジニー」の選手。聖火点灯と400m金メダル
獲得は本当に立派。民族主義を訴えたことも意義があると思う。

第5位:女子マラソン高橋選手の金メダル獲得

 「金メダルに最も近い」と言われ、周囲から期待されながらそのプレッシャー
に負けずに完璧なレース運び。そして拍子抜けするほどに明るくほがらかな
レース前後の高橋選手と小出監督。全ては「やり残したことは無い」という
自信の表れだったと思う。