・・・というよりカネゴンの独り言と愚痴のページ

2001年7月のページ

 
2001年
(平成13年)
7月10日(火)
オススメ本

 私は読書が大キライであった。物心ついた時、
私は本棚3個いっぱいに及ぶおびただしい数の
文庫本に取り囲まれて脅迫されていた。オヤジ
のゲンコツと同様、これは実に怖かった。
 これらは全て私のアニキが読破した本であった。
文学少年だった私のアニキは、毎日毎日本を読
み、学校でも成績優秀で両親の自慢であった。

『オマエもちいとは本読みなはれ!
 こんなにヒデユキの本があるんだから・・・
 本当にオマエはヒデユキと違って
  勉強もやんないし・・・』

と日頃から親に説教されていたが、どんなに
美味いもんでも毎日食べていたらゲップが出
てくるのと同様、こんなに本があったら手が
伸びるハズが無い。

 小学校特に低学年の頃の私は宿題もやら
ずに学校へ行って、しょっちゅう立たされてい
た。保健検査でもハンカチとかをいつも忘れ
ていてここでもしょっちゅう立たされていた。
勉強はキライだけど学校がキライでなかった
のは、小学校の時は休み時間や放課後の
ドッチボール遊びが好きだったし、有名中学
校(この理由は県内の人は分かると思いま
す)の時は陸上競技の砲丸投げで県大会へ
出場することを夢見ていた。高校の時はボー
トが私の生活のメインであった。要するに私
は頭を動かすことよりも体を動かすことが、
生活のメインなのだ。これは今でも同じだ。

 話は戻って、弟から見てこんなに嫌なアニキ
もいないが、成績優秀なまんまに途中大きく
ズッコケルことなく上へ進み続け、やはり予想
通りに東京の大学へ行ったまんま帰らぬ人と
なった。・・・死んだワケではなくて、東京で就
職してしまった。今では渋谷に事務所があって
横浜に自宅がある。
 まあどーでもエエけど、田舎には出来損ない
の二男の私(真ん中に姉がいるので、私は末
ッ子!)が残ってしまった。
 両親はさぞかし不本意であろう。

 優秀な長兄や長女の方が自由度の高い人生
の選択肢を先に与えられ、自由な生き方が出
来るというのは、どこん家でも共通の最近の傾
向のようである。

 そんな読書大キライの私が本を読み出すきっ
かけになったのは何かというと、多分 本田宗
一郎さんの本を読み出したのがきっかけではな
いかと思っている。基本的に私が読むのは
(アニキと違って)、ビジネス書&実用書ばかり
である。要するに銭に結び付く本ばかりである。

 私の部屋を訪れた後輩が

『金子さんは読書家ですネエ』

と言うのだが、自分では銭の本ばかりなので
読書家では無いと思っている。

 ところで自己啓発的な本というのは、本当に
星の数ほどあって選択に迷うハズだ。というか
結構この手の本は結局のところ商売に結び付
けていたり、宗教的なものに引きづりこんだり
というのが多いのでヤバイものが多い。
 私がこの手の本を読み出したのは火事の後
からであるが、特にこれから社会に出て行く
後輩諸君にオススメするとなると、ズバリ

人を動かす
  D(ディール)・カーネギー著 創元社』

この1冊である。
 確か2冊あったハズ・・・と思って昨夜部屋
を探したのだが、ゼンゼン無い。多分以前に
遊びに来た後輩にくれちゃったんだと思う。
今日いつも行く本屋さんに行ったら、この
シリーズの中でこの本だけ無いのだ。仕方
無く注文して来たが、やっぱ人気あるのかな?

 この本のスゴイところは全てが実話に基づ
くものであるということ。時代の関係でアンド
リュー・カーネギーとチャールズ・シュワップ
の話がメインとなっているが、とにかく仕事
にも実生活にも役立つ格言ばかりである。
ナルホド!と思うものばかりだ。

 手元に本が無いのであまり詳しく挙げられ
ないが、この本の中でも私の記憶に最も深く
残っている言葉をひとつ。



『成功に秘訣というものがあるとすれば、

 それは、他人の立場を理解し、

 自分の立場と同時に、
  
 他人の立場からも物事を見ることの

  出来る能力である。

            ヘンリー・フォード』



 確かこの本、現在は1500円くらい、
十分投資する価値はあると思いますが。

 ちなみに今日:7月10日は『納豆の日』
なんだそうだ。いろいろ考えますな。そう
すると明日:7月11日は 『セブン・イレ
ブン』 の日? ・・・になるワケねーか。

全店舗で半額セールくらいやってくんね
 ーかな?


2001年
(平成13年)
7月9日(月)
0次安全思想

 日産スカイラインGT-RとマツダRX-7の
カタログは人気があるという。どちらも技術
的解説がびっしりと書かれていて、それが
タラマラナイ魅力なのだそうだ。私個人的
にも興味があるのだが、まだ目にしていな
い。

 スバルの2代目レオーネの広告だったか
ら、今から20年以上前になるのだろうか。
この時レオーネはマイナーチェンジの際に、

『衝撃吸収バンパー』

なる大型バンパーを装着して登場した。こ
れは時速60Km以下での弱い衝撃の場合
には、バンパーが変形せずに復元する能力
を持つというもので、当方でもこの型のレオ
ーネのエステートワゴン(この時はこう呼ん
でいた)に乗っていたが、実に安心感があ
った。

 スバルはこの時の新聞広告で

『0次安全思想』

と称して確か連続3回くらいに渡って詳細
な解説を行った。ちなみにこれは予防安
全とかいうべきもので、いかに起こりうる
事故を未然に防ぐか、それを車としてどう
行っているか、ということを徹底的に解説
したものである。私の記憶でいくと、車の
新聞広告でこれだけ技術解説だけに絞
った例を他に記憶していない。

 ちなみに現在スバルは

『Active Safety』

と言葉を変えている。
 


 昨日は朝から消防団の夏季点検だったが、
今年は佐野警察署長の稲葉さんのお話を伺
った。その中であの池田小学校事件のような
事件に対する対策で、

『小学校の先生は女の先生が多いけど、
  生徒といっしょに逃げてたらダメなんだよ。
   後ろから刺されちゃうだけだもん。
   私はこの木刀を使った防御を奨めて
    います。』

と言って見せてくれた木刀は長さ128cmで、
樫の木で出来ていて恐ろしく硬いものだとい
う。ナントカ流というのは忘れたが、とにかく
その木刀を使って、相手のみぞおちの下の
ナントカという部分を突くのがイチバン効果的
なのだという。振り回すのではなくて、突くの
である。
 確かにこれで構えられたら、容易に懐には
飛びこめない。どちらかというと先に喉を突か
れるような感覚になると思うが、こうして犯人
に対して時間稼ぎをしている間に警察に通報
して、警察が来るのを待つべきだと話していた。

 校門を閉めるとか、入り口に監視レーダーを
つけるとか、そんな予防安全策ばかり見てき
たが、この話を伺ってナルホドこれがイチバン
効果的な予防安全策かもしれないと感じた。

 ただまあ、根本的には先生のやる気が
イチバンの問題だとは思うけど。


2001年
(平成13年)
7月8日(日)
能力判断

 学校の勉強は試験の結果で判断されるが
(これが全てでは無いと思うが)、仕事の能
力はどこで判断されるか?大企業になると
人事部なるものがあって、その企業独自の
査定制度に基づいて能力が数値化され、
給料やボーナスの金額に反映されている。
最近では一方的に結果だけを本人に通知
するのでは無く、ちゃんと上司から本人に対
して説明がなされる例も増えているようである。


 まあ我々のような零細業者にはそんな査定
をやってる暇は無いが、じゃあどうするかとい
うと、私の今までの経験では、トラブル処理を
やらせてみるとその人の能力はある程度は分
かるんではないかという気がしている。

 まあこのトラブル処理も他人のものを処理
する場合と自分のものを処理する場合と2つ
に分かれる。言うまでも無く前者は大企業
なんかで上司の後始末をやらされる場合だ。
実に割に合わない話だが、私の取り引き先
でこの例はイヤというほど見せられている。
まあこれも組織という世界の中では仕方が
無い。

 個人規模の零細業者の場合は間違い無く
後者なので、こちらで考えてみる。何かトラ
ブルが生じた時、イチバン多いのが

『自分はこれこれかくかくしかじか、こーして
  あーして、・・・・・
  ・・・・・、だからこうなってしまった』

とクドクドと言い訳をしまくるパターンである。
いかにも自分に責任は無くて(周囲の誰かに
責任があって)、結果的に自分が被害者であ
るかのような表現をする。そして

『やってしまったことは仕方無いでしょ』

と開き直る。
 ハッキリ言ってこういう人間は単なる甘った
れでしかない。自分の責任を回避していて、
ナントカ自分の立場を正当化しようとする。
 トラブった時に言い訳していても何もなら
ないのである。肝心なのはその事態に対し
てどういう対処をすればベストかということか
を考えなければならない。
 
 私共の木工の仕事はトラブルが常である。
特注キャビで言うと、イチバンの根本的なミ
スは図面の拾い間違い。寸法の違うキャビが
出来てしまったら完全アウト!私も自分のミ
スで1回あって、しかも徹夜の作業で出荷の
朝発見するというトンデモない事態になって、
頭の中が真っ白になった。・・・結局この場合
には制作し直したが。

 私の場合はすぐに取り引き先担当者に連
絡する。予め後の対処のパターンを何通りか
考えておいて、話し合って決める。事態によ
っては先方からの連絡を待つ。ただ基本的
にはこちらが悪いのだから、しかも関係先の
仕事に悪影響を与えてしまっているのだから、

『ゴメンナサイ!』

と、とにかく謝り通しである。絶対に言い訳な
どしてはいけない。・・・というか先方がある
程度納得してくれて、気持ちが落ち着いてく
れれば、

『実はこうで・・・』

と話しておいた方が、後のトラブル防止の方
法をお互いに探っていく上では良い。


 仕事は全てが順調に行っていて、利益も
順調に出ていて、皆が笑顔で進めることが
出来ればそれに越したことは無い。しかし
現実はそんなに甘くない。
 トラブル処理でその人間の能力が非常に
良く分かるのは
@事態に対して冷静でいられるか
A事態に対して最善の方策がとれるか
という2点である。

 ちなみに仕事の能力と学校の成績は全く
関係無い。学校の成績が良くて仕事も出来
る人間もいれば、学校の成績は良いのだが
仕事が出来ない人間もいる。
 私は後者を

『偏差値バカ』

と呼んでいるが、くだらん学歴のプライドが
あるだけに取り扱いが厄介である。

 やはり自分の能力はきっちり把握してお
いた方が良い。それが分かっていれば、
どこまでを自分でカバー出来て、どこから
先を他人に任せれば良いかが判断出来る。
これはまあ、得手・不得手とも関係してく
るけど。

 イチバン困るのは自分の能力を過信して
いて、周囲に迷惑をかけ続けている人間で
ある。


2001年
(平成13年)
7月7日(土)
スーパードクターK

 就職活動&ソニーケミカルの話になって、
すっかり研究室時代を思い出してしまった。
自慢では無いが私は大学4年の時に毎日
真面目に研究室に行っていたのだ。朝は
教授が来る前に着いて、朝9時30分には
鍵を開けていた。・・・今から考えれば相当
に遅い時間ではあるが、理系の研究室なん
てこんなもんである。大体教授が来ていた
時間が午前10時頃。他の先生も大学院の
先輩もその時間。正確に言うと、教授が来
るギリギリ前の時間。ちょっとでも教授より
も遅れると、やはり申し訳無さそうに入って
くる。

 夜は午前2時までは研究室にいた。もち
ろん私が鍵を閉めていった。真夜中の方が
温度が安定していて、使えそうな実験デー
タが期待出来たからだ。1回の測定時間が
2時間なので、夜中12時に1回仕掛ける
と終わるのは午前2時である。まあ相当に
睡眠不足で、アルバイトが出来ないので
金が無いからろくなもんも食べられず、
おまけにヘビースモーカー揃いの研究室は、
タバコの煙が常にもうもうとした状態。実に
不健康極まりない環境で、おかげで当時
の私の体重は70Kgくらいだった。この体
重、ちなみに高校でボートを漕いでいた頃
の75Kgよりも軽かったのだ。ホントに信
じられない!のだが、イチバンの原因は心
労である。何せ4年生なんて研究室でイチ
バンの下っ端。ただの雑用係。教授を頂点
にして助教授、マスター(大学院2年生、
1年生)、4年生という格付けだから、下っ
端は常に上に気を使っていなければならな
い。当時群馬大学工学部は博士過程は無
かったから、ドクターはいなかった。いたら
もっと大変だったな。

 教授はそんなに機嫌悪いことは無かった
のだが、H助教授は結構ムラがあって、実
験がちょっとでも上手くいかなかったり、メン
バーがミスったりすると機嫌悪くて大変だっ
た。そんな時には大学院の先輩は皆 4年
生部屋(別部屋)に逃げていた。

 研究室のことを思い出して書き出したら、
一気にこんな量になってしまった。切るのも
面倒なので気長にお読みいただきたい。

 ナンダカ最近このページ、完全に日記では
無くなっているような気がするのだが、まあ
いいか。

 さてさて、頭のいい人は世の中たくさんいる
が、私が今までお会いした中でイチバン頭が
ヨカッタ人は、群馬大学工学部4年の時に研
究室でお世話になったKUBO田先生(・・・K
先生だと3人いるので)。当時助教授だったか
ら、今は間違い無く教授になっておられると思う。

 まず学歴がスゴイ。

『灘高校-東京大学-東京大学・大学院』

という、泣く子も黙るこの学歴に加えて、その
実態は

『東京大学・大学院にトップ合格』

で、さらに本人いわくその試験では

『物理で1問しか間違えなかった』

のだという。しかも、しかも、その間違えた
問題というのが、

『解答を記入する際に、10の23乗と書くべき
 ところを10の22乗と書き間違えただけ』

なのだという。ハッキリ言ってバケモノである。
 このことを本人の口から聞いた我々アホ学
生は、その場で硬直していた。そして
『神様・仏様・KUBO田様』
と神様以上に崇め、なおかつ当時流行って
いた漫画の主人公になぞらえて
『スーパードクターK』
と呼んでいた。

 この先生がトンデモナイと思ったのは、まず
研究室の先輩が数学の問題が分からず質問
に行ったのだが、何も見ずに鼻歌まじりでその
問題をスラスラと解いてしまったことだ。所要
時間10分弱。何しろその問題は 「ヘロンの
公式」 という超・複雑な公式を用いないと解
けない問題で、ハッキリ言って数学の専門家
でないと解けないような問題なのだ。KUBO
田先生の専門は分子生物学だが、頭の中に
そのヘロンの公式が入ってしまっているので
ある。今でもその光景がハッキリと浮かぶ。

 私はKUWA教授について研究を行ってい
たが、KUBO田先生にはいつも助けてもらっ
ていた。上記したようにKUBO田先生のご専
門は分子生物学だが、コンピュータもチョチョ
イのチョイだし、電子関係もチョチョイのチョイで
実験装置は全て自分の設計・製作である。
ごく簡単な装置(とは言っても1年がかりな
のだが・・・)を4年生が製作していただけで
ある。

 私達の行っていた研究で、9月頃だか、
レーザー光強度を測定するディテクターを、
それまでの移動式20ポイント測定のもの
から固定式512ポイント測定のものに変
更した。単純に考えて26倍のデータ量を
しかも固定式の高精度で測定出来る訳だ
が、やはりというべきか、実際の稼動まで
は難航した。

 まずレーザー光強度が強過ぎることが
分かって、データがオーバーフローしている
ことが分かった。いくつかフィルターを試して
みて、最終的には特性の異なるものを2枚
使用したが、これもKUBO田先生の発見に
よるもので、このフィルターもKUBO田先生
が持参してくださったものだった。

 それでナントか測定は開始して、データは
とれるようになったが、今度はデータが多過
ぎることが分かった。単純にデータ量が26
倍になっているので処理に時間がかかって
しまい、それまでの20ポイント測定に使用
していたBASICのプログラムでは処理が
追いつかず、全てのデータがとれない。
 この頃は
『全てのデータがとれないのは
 仕方無いのでは?』
という意見と
『いやせっかく高額の資金を投じてマルチ
 チャンネルディテクターを導入したのだから、
  とにかく測定段階では全てのデータを
  取り込むべきだ』
という意見が真っ向からぶつかって、研究室
内は大変だった。もちろん後者の意見がKU
WA教授である。大学院の先輩も上手く行か
なくて不機嫌極まりなく、そのとばっちりを受
けていたのが4年生の私である。何しろこの
先輩、ブスっとしていてろくに口もきかない。
まあ気持ちは分かるんだが、思いやりの欠
けた人だ。

 まあ私も私で、
『ナンデよりによって自分がいる時にこんな
 新しい装置が導入されたんだ?
 今までの古い装置のままだったら、毎日
  同じことやってて楽に卒業出来たのに』
とばかり考えていた。まあ学生でろくな苦労
を経験していない状態では仕方ない。後に
なってみればいい経験をしたと思うし、だか
らこそ今こうして書いている訳だが・・・。

 基本的にはこの新しいディテクターのプロ
グラムはBASICで書かれていて、これを研
究に使用出来るように解読を進めていった
のだが、ハッキリ言ってこのプログラムは
メインルーチンが存在しないというトンデモ
ナイものだった。サブルーチンへ飛び過ぎ
るのだ。だから解読にも時間がかかった。
そのサブルーチンの名前も訳ワカンナイも
のがついていて発狂寸前だった。

 そうしてやっとメインのディテクター制御
部分のサブルーチンへ辿り着いたのはい
いのだが、やはりというべきかその部分は
マシン語なのである。『アチャー!!』とい
う感じだった。マシン語はBASICのような
中間言語と違って、その名の如く直接機
械を制御するので処理が高速なのだが
(私が測った感じではBASICの20倍以
上)、何しろ16進数で書かねばならない。
 ガックリと力を落としてKUWA教授(コン
ピュータのことはワカラナイ)に報告。

  先輩&私:『先生、メインの制御部分が
          マシン語です。』

KUWA教授:『うむ、そうか。
          君達では無理か・・・』

  先輩&私:(非常に悔しかったが)
        『えぇ・・・、スミマセン』

KUWA教授:『KUBO田君に頼んで
           みるか?』

  先輩&私:『よろしくお願いします』

 果たしてその夜10時頃、ご自分の研究を
終えたKUBO田先生は、いつものようにコー
ヒーカップ片手に私達の研究室にやってきた。
簡単に私たちの説明を受けた後、

『そんじゃ、やってみるか!』

とパソコンに向かったKUBO田先生は、その
メイン部分のマシン語の解読を始めた。
 アホな私は何がナンダカ分からず、といって
もちろん帰る訳にもいかず、ただただ後ろから
見てるだけであり、やったことと言えばお茶を
くんできたのと、真夜中にコンビニに握り飯の
買い出しに行ったことくらいである。何しろ下っ
端4年生である。1月だったので原チャリでの
買い出しがムチャクチャ寒かった。

 明け方4時頃だったか、KUBO田先生の

『終わった!』

のひと言。

『えぇ〜? 終わっちゃったんですか?』

とビックリしたのと喜んだのとで大騒ぎ。

『ここんところがこうなってて、
  こうしてこうなって、
  あ〜たらこ〜たら・・・』

と説明を受けたのが、とにかく測定を行ったら
高速で全てのデータを取り込むことに成功した
のである。

『おぉ〜、ヤッター!!』

と嬉しかったの何のって確か1月だったから、
ここまで4ヶ月はかかったと思う。

 データ処理の際には、4ポイントくらいからの
データをまとめて処理する形になった。そうで
ないと当時は5インチフロッピーディスクの時代、
データ処理が大変だったのだ。何しろ20MB
の外付けハードディスクを増設して、その快適
性にタマゲテいた時代である。
 このデータ集約の方法も4通りくらいやり方が
あったのだが、いくつか試してみてグラフ表示
してみて、最も原データに近い形になる方法に
落ち着いた。この頃(2月頃)にはもう私は自
分の卒論発表のデータ処理(以前のディタクタ
ーで取りこんだもの)にかかっていたので、新
しい装置からは離れていたが、この辺のやり
方も全てKUBO田先生のご指導によるもの
だった。

 本当に形の上ではKUWA教授の実験だっ
たが、実際の指導はKUBO田先生に受けて
いたに近い。

 私が卒業する頃にはこの新しい装置が稼
動を始めていた。結果的に私がこの新しい
装置を利用しての測定に携わることは無か
ったが、後日KUWA教授のご自宅に伺った
際にお尋ねしたら、

『いや〜、あの新しい装置のおかげで
 あっという間に測定が終わっちゃったよ!』

と教授が喜んでいた。そして教授から
 『Physical Review Letter』
(物理学会の最高権威)に提出した論文の
コピーをいただいた。ちなみにこれは新しい
家に置いてあったので、火事でも焼けずに
済んだ。私の宝物だ。結果的に
『臨界点普遍の法則』 
は証明されたのだと思う。
 もちろん4年の学生が「研究者」のところ
に名を連ねるなんてことは無いが、まあ少
しはお役に立てたのではないかと勝手に
思い込んでいる。

 まあ、ここまでだけだとKUBO田先生は
『スゴイ人』
だけで終わってしまうのだが、私の日記で
そんな真面目なだけの話を書くはずが無い。

 KUBO田先生の風貌はまさに仙人の
ごとく、といった感じで、普段は冗談の
ひと言も無く、そのスーパーな頭脳の持ち
主とあって近寄り難い存在であった。
 何しろ神様である。

 しかしこの先生トンデモナイ大酒飲みで、
コンパの席で一変するのである。何てった
ってこの先生の席には日本酒の一升瓶が
でーんと置かれる。そんでもってまあ、瓶の
半分くらいのところまでは普通でいるの
だが、瓶の半分を過ぎた頃から暴れ出す
のだ。

『えぇ〜い!ヤローはいらん!
  若い女連れてこ〜い!!
  酒じゃ酒じゃ〜!!』

と日本酒の一升瓶を片手にラッパ飲みしな
がら、騒ぎ出すのだ。前年の私のひとつ上
の代では女性のTさんがいて、この先輩が
お酌に行くと収まったらしいのだが、悪いこ
とに私の代には女性がいなかった。
 ・・・何せヤローばかりの工学部の研究室
だから、仕方が無い。
 するとどんどんエスカレートして、

『何でスケがおらんのじゃ〜!!
  Tはどうした?
  Tを連れて来〜い!!』

と更に暴れ出す。本当にただの酔っ払いの
オヤジである。この頃もう一升瓶は空。やが
て机と椅子をひっくり返して、床の上に大の
字になってしまう。するとその瞬間を狙って
研究室の先輩達が、見事なプロレス技の
連携を繰り出すのだ。

@ひとりが両足を4の字固めで抑え込み、
Aひとりが右腕を腕ひしぎ十字固めで抑え
  込み、
Bそしてもうひとりが左腕をアームロックで
  抑え込んで、

動けなくしてしまう。それでもまだ

『ワシはギブアップせんぞ〜!!
 それよりも 酒じゃ、酒じゃ〜!!
 酒が足りんぞ〜!!
  酒持ってこ〜い!!』

と叫んでいるのだが、やがてついに力尽
きて眠り出す。そうして我々学生がKUBO
田先生をアパートへ担ぎ込むのが、毎度の
パターンであった。

 それでもKUBO田先生は酒の席の事は
一切覚えていない。翌日ケロっとして2日
酔いのそぶりも見せず、いつもの怖い表情
で黙々と研究に取り組む姿がイチバン怖か
ったのだが・・・。
 前夜とのギャップがあまりに大き過ぎた
のである。

 とにかく、こんなバケモノみたいな頭の
いい人に出会えたことも、大学でのすば
らしい経験のひとつである。

 学生諸君、大学は真面目に行くべし。


2001年
(平成13年)
7月6日(金)
ソニーと栃木県

 ソニーケミカル&プレステのことを書いて
いて思い出したが、ソニーという企業と栃
木県の関係は深い。

 まず創始者の故・井深大氏が鹿沼市出身
だと思った。ゆえにソニー・ケミカルが鹿沼市
にあるのだと思う。あと現在会長の出井伸之
氏のご実家が、私の住んでる田沼町のお隣
・葛生町である。
 私はボートの新年会や身内の行事などで
お世話になっている、葛生町の秀山荘さんの
年賀状の宛名印刷を毎年やっている(ここ数
年は 筆まめ 使用)が、その中に葛生町の
住所で 『出井伸○』 さんというお宅がある
ので、まずこちらに間違い無い。

 日本テレビの 『知ってるつもり』で以前に
故・井深大さんのことを取り上げた。この番
組のいいところは、誰でも知ってるその人の
功績とかよりも、知られざる影の部分にスポ
ットを当てて深く掘り下げているところである。
だからそのコンセプトが番組名になっている
訳だが、井深氏の場合は娘さんが身体障害
者で、学校でも大変な苦労をした。そのこと
がきっかけで、ソニーの工場では身体障害
者が働けるような環境作りに早くから努めて
来たのである。
 番組の終わりにその身体障害者の工場の
様子を写していたが、車椅子の人がラインの
手作業が出来るように、車椅子が乗った台が
どーんと油圧シリンダーの力で上昇してしま
う。だから普通の人と同じ作業が出来る。こ
れは見てビックリした。

 ソニーという企業、そして製品に、どことなく
人間的な優しさを感じるのは、こんなところか
ら来ているのかもしれない。

 もうひとつソニーという企業の凄さを感じた
エピソード。ソニーの開発した製品をざっと
あげれば、テープレコーダー、トランジスタ
ラジオ、トリニトロンテレビ、ウォークマン、
CD規格、・・・と枚挙にいとまが無い。

 新製品が完成して、開発陣が
『ヤッター!』
と喜んでいるのも束の間、井深氏から発せ
られた言葉は、

『いいか、1年後にはこの製品が市場から
 不要になるような新製品を、すぐに作れ!』

だったという。

 普通我々凡人はヒット商品が開発出来
れば
『おぉ、これで一生食っていける!』
などと甘えてしまいがちだが、さすがソニー
は違う。

 



 昨日は夕方5時過ぎ頃だったか、車の
運転中に火災連絡が入った。ナント山火
事だという。しかも地元・唐沢山。

『おいおい、マジかよ〜。
  こりゃ帰れるのが
   真夜中じゃねえかよ〜』

とガックリ来ながら、私の場合は既に
佐野にいたので現場に急行した。・・・
のだが、煙がぜ〜んぜん見えない。
『どこじゃ?』
とウロウロしつつも、車は邪魔になるので
田沼からの入り口にある無料駐車場に
停めた。
 そしたら町の本部が来てそれから警察
が来たのだが、その人たちも火災現場が
分からないのだという。加えて上で作業
していた建設会社の作業員の方がちょう
ど降りてきたのだが
『煙なんかぜんぜん見えなかったゾ』
と言う。おい、マジか誤報かと思ったら、
私の携帯が鳴って先に消防車で入って
いった後輩から
『金子さん、煙見えますよ』
と言うので、指示された現場に団長と
いっしょに入っていくと、確かに山の
谷間に白煙がよどんでいる。

『おい、マジかよ。
 歩いたら相当あるぞ・・・』

と嘆きつつも、悲しい習性で既に背中
にはいつのまにか「水のう」を背負って
いた。しぁねえ、行くか〜、今日は持
久戦だ〜、見積もりどすべ〜、・・・・
とかいろいろ考えながら同僚と進んで
いったら、先に入った1分団が戻って
くる。聞くと、消防本署の判断で上
(青年の家)からホース延長するので、
そちらへ移動するとのこと。
 なんつ〜か、距離的には変わんね
えと思うけどなあ〜、とか皆でブツブ
ツ言いながら移動。本署のポンプ車
が入ってきて、いよいよホース延長か、
この急勾配な坂じゃやだなあ、とか思
っていたら、

『撤収!!』

の声。いつもはホントこの声は嬉しさ
極まり無いのだが、この日ばかりは
サアこれから、という臨戦体制でいた
だけに皆一様に

『ハァ??????』

と開いた口が塞がらない。
 聞くところによると、上の神社で枯
草を燃やしたのが、その煙がたまたま
その山あいの谷間にまとまってしまっ
たらしい。それを見た通行人が通報し
てしまったのだ。燃やした枯草の量は、
わずか1平方メートル程度だったらし
いけど、警察&消防本署の人も、別に
悪いことをしたわけでも無いし、どうも
その作業はボランティアの方が好意
でされたとのことで、怒るにも怒れず
ただただ
『今後は注意してくださいネ』
と話しただけだったという。
 
 ただしかし我々消防団員は皆仕事
を途中で切り上げてきたところだった
だけに、一様に
『おいおい、何なんだよ〜』
とぶつくさ、ぶつくさ。何せ時間的に
お客さん商売の方はイチバン忙しい
時間だし、製造業の方はちょうど出
荷になる時間なのでこれまた忙しい
時間である。もう皆現場から必死で
携帯電話で指示していたのだが、
撤収が決まってまたすぐ携帯電話で
「とりあえず今スグ戻るから」
とまた連絡が忙しかった。

 ひとつ書いておくと、町内の行事な
どで火をつける作業があることが既に
分かっている場合、

『揚煙(ようえん)届け』

というのを管轄の消防署に提出して
おかねばならない。

「コレコレこういう形で火をつけて
  燃やしますので煙が出ます。 
  ですからもしも通報があった
  場合でも、この住所でのこの
  時間の場合には消防車は出動
  しないで下さい。」

という内容のものだ。
 私の場合も一度だけこれを書いた。
平成6年8月の工場火災の残材処分
の時である。


2001年
(平成13年)
7月5日(木)
大学4年の今頃は・・・

 日頃ボートの後輩達にはアホだの、
バカタレだの、脳みそがタランチュラだ
のと言いたい放題の私だが、自分が
大学4年の今ごろ何をしていたかとい
うと、研究室にこもって大学院受験の
勉強を始めた頃である。
 そんでもってその頃の自分と現在の
後輩連中を比べた時、ナンダカ現在の
後輩連中の方が優秀で良識もあるん
じゃないかな、なんて思えてきた。
その頃の時代はもちろんEメールなんて
ないけど、電話のマナーなんて書いて
おきながら、果たして自分はマトモな
電話が当時出来ていたかというと、甚だ
怪しい。

 私が大学院受験をすることに決めた
いきさつは、鹿沼市のソニーケミカルと
いう企業に大学院(修士)から就職する
のが目的であった。別に勉強が好きだ
ったわけではない。鹿沼なら現在住ん
でいる実家から1時間ちょっとなので、
ナントカ通勤可能かなあなんて考えて
いたからだ。
 現在後輩連中に
 『周囲に対して常に
  思いやりを持ちなさい』
なんて実にエラソーなこと言ってるが、
その頃の自分は自分の好きなことで
楽な道に進むことばかり考えていた
のだ。

 結局 大学院進学を取り止めて田舎
に戻る決意を固めて教授に報告に行っ
たのは、3月末の卒業式の前日である。
下手に外の企業に勤めても、全てが
中途半端になってしまうと思ったからだ。
 周囲からは

『もったいない』

とか

『オマエはアホじゃ』
 (これは現在当たっている)

とか散々言われたが、その決断が正し
かったかどうかなんてのは、誰にも分か
らないことだ。ただひとつ言えることは、
自分で決断したことに対して努力を怠
らずに突き進むしかないということだ。

 学校の勉強と違って、仕事の場合は
周囲とのタイミングが絡んで来るので
 『ただ努力すればいい』 
というものではない。また努力する方
向が間違っていたら、これはもう実績は
伴って来ない。だから仕事は難しいの
だが、失敗を教訓として生かせれば
それも無駄にはならない。
 成功者として名を馳せている人でも、
必ず1度や2度の大きな失敗を経験し
ている。

 例えばソニーのプレイステーション。
このゲーム機の成功の要因は、ハード
の優秀性もさることながら、ソフト開発
に徹底して力を入れたことに依る。先行
していた任天堂に対して、ソフト開発の
負担が減るように努力した。これはビデ
オでベータマクスがVHSに完敗した
経験によるものであることは、明白な
事実である。

 NHKのプロジェクトXのVHS開発秘話
は大きな反響を呼んだ(私は本で読んだ)
ようで、ビデオも発売されているが、あの時の
ソニーの社長は強気一辺倒で知られる大賀
典雄氏。他社に対する説明でも

『天下のソニーが開発したビデオ規格なの
  だから、他社が追随するのは当たり前』

的な強引なやり方だったらしい。ところがビク
ターの親会社であるナショナルがVHSの採
用を決めた。
 そしてお互いに互角の戦いをしていくが、
レンタルビデオの普及という点で、VHSに
軍配が上がった。ポイントになったのは画質
よりも2時間録画だったのだ。

 この時のソニーの痛手は大変に大きなもの
で、株主総会でも大もめにもめたのだ。しかし
以後のソニーはプレイステーションやDVD規
格において、きっちりとこの教訓を活かしてい
くのだ。
 何しろ大賀典雄社長の後の出井伸之社長
(現在・会長)の就任理由そのものが、

『ソフトが分かる人』

というものだったからだ。

 ゲーム機も近々マイクロソフトから 
『X-BOX』 
が出て来る。
 今後どのような戦いが展開されるか楽しみ
である。


2001年
(平成13年)
7月4日(水)
Eメールのマナー

 最近こんなことばかり書いていて、どうも
お説教じみた内容ばかりで私もツマンナイ
気はする。社会人の方からは

『そんな分かり切ったことばっかり、
 常識的なことばっかり書いてるんじゃ
  ねぇよ!』

と怒られそうだが、私の出来の悪いボートの
後輩達のためなのでご了承願いたい。いち
いちメールや電話でレクチャーしてたらタマ
ンナイので、このHPを使ってしまう。自分
でもなかなか賢い方法ではないかと思って
いる。
 特に現在内定をいただいているバカタレな
後輩達が約1年後に社会に出て行くので、
その時に社会人諸先輩の方々になるべくご
迷惑をおかけしなければと、切に願っている
のだが・・・。


 さてさて特にこれはボートの後輩の携帯の
Eメールの場合に多いのだが、
『件名』
のところに何も入力せずに送信してくるメール
が多い。これは非常に困る。先方は
『内容を見てくれればいいのだから、
 件名を入力するのはメンドクサイ』
と思っているのだろうが、私の場合には全ての
メールをすぐに開いて見るのではない。仕事中
ではさっと『件名』だけ見て、緊急の用件かそう
でないかを判断している。緊急の用件であれば
すぐに開いてスクロールして全文読むが、そう
でなければ後でまとめて読む。『件名』 のとこ
ろに何も入力が無いと内容が類推出来ないから、
必ず開いて見なければならない。概して緊急の
内容で無い場合の方が多いから、見てから
『おい、何だよ!』
てなことになる。
 イチバンありがたいのは、急ぎの用件の場合
には件名のところに『緊急!』とか『至急!』とか
入れておいてくれることだ。

 あとスピーカー関係の質問なども含めて、
初メールの時に自分の氏名も何も入力せずに、
いきなり用件だけをぶつけてくるものも多い。
ハッキリ言ってこういうメールにはレスを打つ
気持ちは全く無くなる。ただまあ悪いとは思う
ので儀礼的なレスは打っているが、その後に
こういう人から再度メールが来ることはまず無い。

 大体において初メールの文章を読めば、先方の
性格はある程度予想がつく。 

 今まででイチバンの爆笑&ぶっとびメールは、
やっぱりボートの後輩のO嬢(高校時代)から
来たもの。やはり彼女は大物である。私は彼女の
ことを 『天才』 と呼んでいるが、同級生からは
 『宇宙人』と呼ばれている。いずれにしても(本人
は自覚していないが)スゴイ奴だ。スケールが違う。
 掲示板での彼女の投稿は非常に独特なものが
あって楽しみなのだが、最近 投稿が無い。
お店の常連さんと同じで、掲示板の常連からの
投稿が無いと少々心配になる。だから先日携帯の
メールに

『最近オマエ投稿無いが、くたばってるのかいな?
 ど〜でもええけど、オマエは我輩を叱った責任が
 あるのだから、
 週に1回の投稿はノルマじゃ!』

と入れたら、

『今 夏休み前でレポート地獄に陥ってます〜』

とのこと。

 そういや私立大学は夏休み前に試験&レポート
ラッシュになるのだわいね。今月は大変だ。
 がんばっておくれやす。

2001年
(平成13年)
7月3日(火)
電話のマナー

 先日埼玉県教育委員会から電話がかかって
きて、

『今度国体の埼玉県代表クルーのオールに、
 埼玉県のマークを入れたいと思うのですが、
 今まで栃木県さんでその様なことをされた
  ことはありますか?』

とのご質問。

『いやあ、うちがそんなメンドクサイことはした
  ことありませんよ』

と答えておいた。私の知っている例では他県
でも目にしたことは無いが、

『埼玉県さんがそういう新しいことに対して
  先陣を切るのは、非常にいいんじゃない
  ですか?
  こういうツマラン世の中ですから、新しい
  ことやってくださいよ。
  他県に波及してブームになればいいです
   ねえ。
  ただし栃木県のマークは図柄がメンドウ
  極まりないから、うちでは絶対にやらない
  ですけど・・・』

と話した。参考になったかどうか全くワカンナイ
のだが・・・。
 まあ、別にこの会話のやりとりの内容はどう
でもいいのだが、電話の切り際に先方が、

『どうもお忙しいところ、スミマセンでした。』

とおっしゃった。非常にビックリした。ボート関
係者からの(いわゆるコー努員の方々からの)
電話で、こんな気の利いたメッセージを聞いた
のは初めてだったからだ。それが他県の教育
委員会というのがチト悲しい気もするのだが。
気のせいかもしれないが、栃木県関係者から
の電話は私が困る時間にしかかかって来ない。
仕事がムチャクチャ忙しいか、昼寝している時
間かのどちらか。Eメールが使えないのなら、
せめて全てFAXにして用件を簡潔にまとめて
発信して欲しいのだが(以前このことは伝えて
あるのだが)、こちらの都合を考えてくれる人は
皆無である。
 ・・・あそうだ、会長(民間会社の社長さん)と
のやりとりは全てFAXであった。


 さてさて本題、私が考える最低限の電話の
マナー。

@まず最初に自分の所属と氏名を
  しっかり名乗る

 結構これって自分の姓だけしか言わない人が
多いが、ハッキリ言って誰だか分からない。
 例えば『森下』さん。佐野高校ボート部OBだけ
で2人いて、仕事の関係で1人いて、消防団の
先輩で1人いて、現時点私の知り合いデータベ
ースのリストには合計で4人もいる。姓だけでは
どこの誰だか分からない。
 私がいつも
『どちらの○○さんですか?』
と怒るので、最近はボートの後輩では
『佐野高校ボート部第何期の○○』
と名乗るヤツが多くはなってきた。
 少しはいい傾向だ。

 学生であれば
『佐野高校ボート部の○○○』
『自治医科大学ボート部の△△△』
と名乗ってもらうと、こちらは分かりやすい。

 社会人で仕事の用件であれば絶対に
『会社名(+所属部署)の○○○』
である。最近の私も自営業でありながら
『カネコ木工の金子です』
と名乗っている。この方がうまく会話に
つながるからだ。

 この所属をつけることは、先方にデータ
ベースでいうところの
『絞り込み』
を1回頭の中で行わせることになり、その
人間を特定するのに非常に役立つのだ。
『え? 誰?』
などと聞き返すケースが少なくなり、用件に
スムーズに移行することが出来る。

 そういや佐川急便に集荷依頼の電話する
時には
『田沼のカネコ木工の金子です』
とご丁寧に地域までつけている。『田沼の』を
言った段階で、先方は発信者番号表示の
『0283』を確認しているに違い無いからだ。

 ボートの用件で電話する場合には
『栃木県ボート協会事務局の金子です』
と名乗っている。
 
 消防の連絡をする場合には
『消防団(丁寧に話す場合には第2分団を
 つける)の金子です』
と名乗っている。

 プライベートな場合には
『アホの金子です』
と名乗っている(?)。
 

A相手が電話に出られる状態か
  確認する


 基本的に私は電話が大ッキライなので、
電話に出る時は非常に不機嫌である。また
私の場合は仕事をしているか寝ているか
のどちらかしかない単純な生態なので、
どっちにしても電話に出ることはロスにつな
がるのだ。
 まあ自分のことは別にして、必ず

『今 お電話大丈夫ですか?』

と相手の状態を確認すべきである。特に
相手が携帯電話の場合には、これをやら
ないと失礼かつ危険極まりない。例えば
相手が自動車の運転中に無理して出て
いるかもしれない。事故につながったら、
大変だ。
 私の場合、この言葉をつけられるとボート
の後輩でも話を聞いてやるかという気になっ
てくる。大体、
『大丈夫じゃねえけど、何?』
と聞き返す。もうひとつは携帯電話でこの
言葉をつけてくれれば、
『今 運転中だから、5分後にかけ直す』
とかいうことが言いやすいのだ。仕事の
電話ではメモする必要が多々あるから、
安全なところに駐車してからかけ直した
方が良い。
 リダイヤルするのだって、着信履歴が残っ
ているから簡単である。


B用件を簡潔に述べる

 よくツマラン外交辞令から入って、余計な
話をだらだらと続けて
『さて切ろうか』
と思った頃に、最後になって用件を述べて
くる暇な人がいるが(同様にそのような訪問
客もいるが)、せっかちな私には最低な電話
となる。
 自分の伝えたい用件を簡潔に述べて、
そして切り際には

『どうもお忙しいところ、
  ありがとうございました』

とひと言加えた方が良い。こちらが忙しくな
かったとしても気分が良い。
 もっと最低なのは自分の伝えたい用件その
ものが頭の中でまとまっておらず、考えなが
ら電話で話してるヤツ。確実に30分はつぶ
される。

 あと携帯電話からかける場合は注意が必要。
プライベートな間柄や気心の知れた間柄でか
ける場合には構わないが、仕事で先方に依頼
する場合や相手が先輩の場合、まず電波の
状態を確認してからかけるべきである。
 自分の用件でかけておいて、自分の携帯電
話の方の電波の状態が悪くて途中でブチっと
切れてしまったら失礼極まりない。切れてから
かけ直してきて
『スイマセン、電波の状態が悪くて・・・』
なんてのは全く通用しない。・・・のだがこの
状態は非常に多い。電波の状態が悪かったら、
かけて来なければいいのである。もしくは公衆
電話を使用すべきだ。
 ひどいのは大学のキャンパスの中から平気で
かけてくる。そしてこちらに2度手間、3度手間
をとらせる。電波の状態が変動しやすい移動中
(自動車&自転車)の通話も注意が必要だ。



 ナンダカ電話のことだけでやたらと長くなって
しまった。まあEメール中心の現代においては、
電話の直接会話は非常に少なくなっているだ
ろうが、それでも相手の返事が緊急に必要な
場合には電話は必要である。

 もうひとつ社会人の会話&メール&FAXなど
で重宝する外交辞令をひとつ。

『お世話になってます。』

これはどんな用件にも使える。この言葉はウチに
来る保険屋さんから学んだ。

 あと私が電話を受けた時の最近の決まり文句。

『お世話様でっす!』

これもどんな用件にも使える。・・・さすがにボートの
後輩には使わないけど。どっちかというと

『何の用?
 バカタレ、とっとと用件言わないと切るゾ!』

と脅していることの方が多い。


2001年
(平成13年)
7月2日(月)
割り切り

 昨日消防団の操法大会がようやく終了した。例年
は5月の田沼町の大会だけなのだが、今年は順番
で安佐地区(安蘇郡の葛生町、田沼町、そして佐野
市)に出ねばならないから、長期だったのだ。結果は
どうであれ、とにかくほっとする瞬間である。
 ・・・といいつつも必ず結果を問われるので書いて
おくと、参加6分団中第5位だった。どうもうちの分団
は安佐大会とは相性が悪いのだ。
 今朝起きたのは6時30分だが、時計を見た瞬間に
一瞬寝坊したかと錯覚した。実にのんびりした朝だっ
た。

 ところで普段の生活の中でイチバン緊張するのが、
消防団員として火災連絡を受けて現場へ向かう瞬間
である。果たしてどの程度の規模の火事か、行ってみ
るまで分からない。大体が何もしないで30分くらいで
現場を後にすることが多いのだが、山火事の場合は
間違い無く半日以上を覚悟しなければならない。
 そしてイチバンほっとするのが、火災現場から帰っ
てくる瞬間。小屋へ戻って来てからホースを洗って干
して、
『ヤレヤレヤレ・・・
  今日はスゲエ火事だったな』
とか
『延焼しないで良かったな』
とか言いながら、ほっとした気分で皆と共にする食事は
格別に美味しい。やったことが実感として分かる。

 対してボートの事務局というのは、やったことが実感
として何も残ってこないのだ。書類の整理とか連絡事
項とかそういうものがメインになる訳だが、ナンダカ自
分がどの程度のことをしているのか、人の役に立って
いるのかどうかがサッパリ分からない。

 今回も大学生後輩達の就職の相談には随分と乗っ
てきたが、自分自身も大学の間就職に関してはかなり
悩み続けただけに、やはり相談を持ちかけられると
一生の問題だけに適当に答える訳には行かない。
 つまらん勧誘の電話や営業の電話は即効で切って
しまうのだが、やはり就職の相談ともなると機械を
止めてじっくり聞いてやらねばならない。
 その上でこちらの考えを伝えねばならない。

 私が相談を受けた連中はほぼ皆内定が出て来て
いるが、中には当初の方向とは全く違ったところへ
決まった人間もいる。結果的にその人間に対しては
全く私は役に立たなかったことを実感している。しか
しその人間から持ちかけられた相談がイチバン多く
て実に苦労した。
 ここいら辺が非常に良くワカンナイのだが、ひとつ
言えることはボランティアに対しては割り切りが必要
だということ。仕事と違って結果を求めてはいけない
のだ。

 あまり余計なことをゴチャゴチャと考えていても
仕方が無い。ひとつ言えることは、やっと消防の大会
が終わったのだから、仕事を集中してやれるという
こと。
 考えてみたら、もう7月に入っているのだ。

 ボートの国体予選・関東ブロック大会は大丈夫かな?
・・・いろんな面で、今年は実に不安。


2001年
(平成13年)
7月1日(日)
鬼弐(おに)

 これは私が高校の頃だったと思うが、ヤングマガジン
だかビジネスマガジンかどちらかの雑誌に連載されて
いた漫画である。時の戦国武将・武田信玄(・・・だっ
たと思うのだが、自信が無いので以下:T、何しろ私は
社会が全然ダメ)に仕えた山本勘助との2人の絆を中
心に描いている。
 私もこの漫画を最後の最後までは読んでいないのだ
が、ナゼだか今でもスゴク印象に残っている場面がある
ので、それをいくつかピックアップしてみたい。

 中心になるのは山本勘助なのであるが、この漫画で
は数々の戦で体中に負傷したブ男として描かれている。
片手・片足を失っていて義手と義足。片目は深い刀傷を
負っていて眼帯使用。Tに仕える段階の試験みたいな
ものをクリアーした後の、Tとの会話。

 T :『しかし、おぬしは醜(みにく)いのお・・・。
    どうしてそこまで醜いのじゃ?
    その醜さでは妻ももらえぬじゃろ?』
    (・・・ナンダカ今の私が言われてるような気が
      するのだが)

勘助:(あぐらをかきつつ、眼帯を外しながら)
    『アハハハ!
     殿のおっしゃる通りでございます。
     女子(おなご)など、私が近付くだけで
       逃げてしまいます。
     まことに私は醜いですナア・・・
     アハハハ!』

 T :(少し間を置き、向きを変えながら)
    『人間は概して自分の弱さを
      隠したがるものじゃ。
     ましてや自分の弱さを笑い飛ばせる
      ような人間は、数少ない。
     しかし、おぬしは強い人間じゃ。
     許せ、勘助。2度とそちのことを醜いなどとは
       申さぬ。
     男の約束じゃ』

勘助:(下を向き、涙を流し続ける)

 上記の会話の次の号で、メデタク採用が決定して
後の会話。

勘助:『殿、どうして私が仕えさせていただくことに
     なったのですか?』
    (原文忘れたが、こんなニュアンス)

 T :『それは、お主が世の中を厳しく見て来たからだと
      思うからじゃ。
     甘い体験しかしていない人間は、
      どうしても世の中を甘く見るから失敗する。
     数々の厳しい体験をして来た人間は、
      物事を厳しく見るから用意周到になる。
     勘助、これからはワシに力を貸してくれ。
     ヨロシク頼む。』

勘助:『今の気持ちを一言、』
    (大きく飛び跳ねて)
    『うれしゅうござる!!』

 この後お互いに全幅の信頼を置いて、活躍していく
のだ。
 素晴らしい会話である。ナゼだかこの2つのシーンが、
強烈に印象に残っている。

 昨日の『ちゅらさん』も素晴らしかった。東京に出て
来たおばあが、いよいよ沖縄へ帰る段になっての、
管理人さんとの会話

おばあ:『管理人さんも沖縄へ出て来なさいよ!
      沖縄はいいところだよ!』

管理人:『沖縄がいいところだということは分かって
       ますが、あの戦争のことを思うと、
        どうも複雑で・・・』

おばあ:『それはそうかもしれないね。
      だけどね、悲しみが多いからこそ、多くの
       悲しみを体験したからこそ、他人に
        優しくなれるのさ。
      沖縄の人は優しいよお!
      ホントに他人に優しいんだよお!』

 この言葉は真理だと思う。