・・・というよりカネゴンの独り言と愚痴のページ

2001年7月のページ

2001年
(平成13年)
7月31日(火)

ダルイ・・・


 昨日は毎度のごとく疲労感でゲッソリだった。

 このけだるさは毎年恒例で、消防の操法大会が
終わった翌日と、このボートの国体関東ブロック大
会が終わった翌日である。結果はどうであれ、試
合が終わるとガックリする。まあ、ボートの方は
昨日やっとデジカメの写真の取り込みを終えたば
かりで、更に詳細な大会記録一覧はこれから送
られて来るのでマダマダ仕事はたっぷり続くのだ
が・・・。

 試合の行われた群馬県・館林市は私の家から
車で30分くらいなので、私はホテルでの宿泊は
しなかったのであるが、結果的にはほとんと丸1
日試合会場にいたのと同じことになっていた。金
曜日から日曜日まで都合丸3日家を空けていた
のと同じで、これも毎度の如くで、たまってしまっ
たメールと書類に目を通すのが忙しい。




 松下電器のリストラを書いたばかりだが、その後
もショッキングな報道ばかりが続いた。ナント言って
も大ビックリは富士通の2000億円の赤字だろう。
IT比率の高い富士通は、アメリカで始まったIT不
況の波をもろに被ったと言える。もう一方の雄・NE
Cも利益予想が当初予想の1/5に落ち込むとの
見通しであった。
 果たしてこれから日本経済は立ち直るのか?

 参議院選挙は予想通りの自民党の勝利に終わっ
たようだが、ハッキリ言って今回の選挙は何がナン
ダカ分からなかった。党首の顔ばかりが報道されて、
肝心の候補者の顔がサッパリ分からなかった。これ
は報道協定によるものらしいのだが、さらに訳ワカ
ンナイのは『非拘束名簿方式』。要するに有名人が
いると有利とのことらしい。

 実際私もボートの試合と重なっていてすっかり神
経がコチラに行っていて、投票を忘れるところだった。
後輩が帰ってから思い出して、夕方5時過ぎに慌て
て会場に向かった。結構この時期、会社の夏休みを
とった人も多かったのではないかと思われるが、投
票率が上がらなかったのは投票の時期が悪かった
せいもあると思う。

 今日は月末。どうも7月は2週間くらいしか仕事を
していなかっように思う。

 ハッキリ言ってボランティアの方が疲れる。

 がんばって仕事せねば!!


2001年
(平成13年)
7月30日(月)

試 合 終 了


 ボートの国体予選関東ブロック大会が無事終了した。
今年は群馬県の主催であったが、初めての館林市・
城沼ボートコースでの開催とあって、予算の面も含めて
多くの困難があったと予想される。元々痩せているS
先生が、さらにげっそりお痩せになっていたので、大変
な苦労だったろうと思う。

 大会間近になって台風の直撃が懸念されたが、高気
圧の勢力が強かったのか上陸せずに済んだ。27日(
金)の配艇練習の時は風が結構吹いて心配したが、
28日(土)の予選&敗者復活レースの間は空はくもり
で風も吹かないという絶好のコンディション。また29日
(日)の決勝は太陽は出たもののそれほど日差しは強く
なくて、やはり過ごし安かった。

 毎年選手の確保に苦労している我が栃木県であるが、
今年は佐野高校ボート部OBで現在中央大学ボート部
在籍の三柴君が、成年男子シングルスカル(1人漕ぎ)
で見事に決勝で3位になり、この種目4位以内までに
与えられる本大会(宮城国体)への出場権を獲得した。
協会の人間として、心から感謝したい。

 また大会本番まで一度も全員いっしょの練習が出来
なかった、佐野女子高校ボート部OGによる成年女子
4×+(舵手つきクオドルプル)クルー。スカル未経験
者を2人乗せていて、本当にちゃんとスタートしてゴー
ルするか心配だったが、無事に完漕してくれた。これも
栃木県のためというよりも関東ブロックのため、よくぞ
がんばってくれたと思う。

 ・・・車で送迎していた私は今とっても耳が痛いけど。


2001年
(平成13年)
7月27日(金)
懺 悔


ボートの国体予選関東ブロック大会のため、29日(日)の
大会終了までこのDiaryはお休みさせていただきます。
ご了承ください。


2001年
(平成13年)
7月26日(木)

教科書問題


 日韓問題が大変なことになっている。『つくる会』の教科
書を採択しかけた栃木県・下都賀地区も、結局は決定を
変えてしまった。やっぱり変革の先頭には立ちたくないん
だろうナア。

 個人的に言うと、社会の授業なんてチンプンカンプンで
まともに受けてた記憶が無いので、問題にされている件
も自分たちの勉強の時にどの様な記述だったか全く覚え
ていない。

『日本の侵略行動を正当化する』

とされる記述がどんなものかは、ハッキリ言って私には
分からない。

 
 ただひとつ思うのは、どうも
『教科書は間違っていない』
という前提が強過ぎるのではないかということ。特に歴史
の古代史なんかは新たな遺跡の発掘なんかでコロコロと
定説が変わるし、理科でも新たな定理や現象の発見によ
ってコロコロと変わる。

 オーディオ評論家の故・長岡鉄男先生の記事の中で

『オーディオの教科書というのは随分と大昔に、古い
  理論だけを頼りに書かれたものだ。

 僕も以前はそれを信じていたのだが、ある時
  「これは間違ってるんじゃないか?」
 と思っていろいろ試してみたら、案の上その通りだった。

 特に共鳴管スピーカーなんてのは、古い教科書では
  完全にヒドイ音になる、と否定されているけど、今
  僕のところで素晴らしい音で鳴っている。

 僕は教科書とか常識というものは、まず疑ってかかる
  ことにしている。』

とあった。誠にその通りだと思う。

 私はそんな定理とか理論とかの難しいことはワカラナイ
のだが、基本的に天邪鬼なので一般大衆とは逆の行動を
とることにしている。昨日は土用・丑の日だったらしいので、
みんなで うなぎ、うなぎ と騒いでいるので私はラーメン
屋さんに行こうと思った。絶対に空いていると思ったから。

 ・・・のだが、冷蔵庫の残りモノをきれいにしていたら、
お腹がいっぱいになってしまった。喜ぶべきか?

 お金は使わずに済んだから、マア良かったかな?


 
2001年
(平成13年)
7月25日(水)

松下電器のリストラ


『ボーナス支給額のうち20万円以上を自社製品の購入に
充てること』

こんな記事が新聞に出たのが数日前で、ハッキリ言って
これは事実上の現物支給であるが、ついに松下電器の
4〜6月の決算が赤字転落見通しとなった。あの天下の
ナショナルが?である。そして今まで聖域とされてきた
雇用についにメスを入れることになり、グループ全体合計
5社では8万人社員を対象にした早期退職優遇制度が
発表された。

 背景には巨費を投じて開発したデジタル・テレビの売れ
行きが不調であること、そして先日の携帯電話のバグに
よる回収騒ぎもあるだろう。何しろ今年度は売り上げ高
でソニーに抜かれるのだという。

 くどいようだが、
『あの天下のナショナルが?』
である。信じられないというのが本当だ。今までソニーが
業績好調でも常にリストラ(単に人事、という事では無くて
経営の合理化)を進めて来たのに対して、松下の場合に
は『終身雇用が当たり前』という意識が浸透していて、
いわゆる馴れ合いの気持ちが蔓延していたのではないか
という気がしている。
 さらには松下の場合には『ナショナル・ショップ』と呼ば
れる町の電気屋さんを系列に抱えているから、その点で
も思い切った合理化が出来ないのではないかと推測して
いる。

 昨日の新聞でも軒並みアメリカ企業が大幅に業績を落
としている。特にパソコン関連である。インテルとマイクロ
ソフトが大幅悪化、ゲートウェイに至っては赤字転落だ。

 ますます厳しい時代は続く。

 厳しいと言えば、この暑さも実に厳しい。

 寺内健選手(世界水泳・3m板飛びこみ)、銅メダル
獲得オメデトウ!最後の飛び込みで見事な逆転!!
お見事!パチパチ!


2001年
(平成13年)
7月24日(火)

Y君のお父さん


 昨日工場火災のことを書いたら、どうしても思い出して書かず
にはいられないことがある。

 佐野高校ボート部の後輩でYという男がいる。現在小山市の
コマツに勤めているが、年齢はいくつだったかな?25歳か26
歳くらいか。まあこれもトンデモナイ奴で、その凄まじい馬力の
ある性格と体力はそんじょそこらにはいない。オートバイ免許が
与えられる前は、田沼の山奥から佐野の船津川まで自転車で
通っていたといえば、栃木県関係者ならばその凄さが分かるに
違いない。多分片道で2時間はかかったのではないだろうか?

 彼は1人漕ぎのシングルスカルで関東ブロック大会で決勝で
2位になって国体本戦の出場を決めた男だ。2浪しながらも群
馬大学工学部に進学し、なおかつ大学院(修士)まで進んだ。
普通研究生活に入ると体力が落ちて顔は青白くなっていくもの
であるが、彼の場合はさらに筋肉がついて体力が増えていた
という、トンデモナク訳ワカンナイ奴である。彼は酒も飲まず、
よって年1回のわたらせ会(佐野高校ボート部OB会)にも出て
来たことはなかった。私が顔を合わせるのも試合の時くらいで
あった。




 平成6年8月8日の当方の工場火災の翌日(ということは
9日か)、そのY君が愛用のジープでやってきた。

『金子さん、焼けちゃったんすか?』

と聞いてきたので、まあ、ご覧の通りだよ、と答えたら、

『そんじゃ俺、明日片付け手伝いに来ますよ!!』

と言うのだ。この時彼はまだ学生でちょうど夏休みではあっ
たのだが、彼は大工さんであるお父さんの仕事の手伝いで、
毎日現場にいっしょに行っていた。

『だってオマエ、オヤジさんの手伝いがあるのだろうが・・・』

と私が言ったら、

『いやあ、オヤジなんてちょちょいのちょいですよ!』

とYは言う。まあ、あんまり無理せんでくれと伝えた。

 しかし翌日彼は朝8時前には着いて、とっとと片付けを
始めた。彼を始めとして多くのボート関係者が片付けに来
てくれた。ひとつ分かったことは、モノを運ぶ力というのは
腕ではなくて腰であるということである。ボート関係者の
パワーは凄まじかった。特にこのY、とにかくずっと走って
いるのである。普通ならばモノを運び終えて次の行動に
移る時には

『ヤレヤレ・・・』

と休みつつ歩くものだが、Yの場合は走っているのである。
それも丸1日中。

『オマエ、そんなに走らんで大丈夫だから、ちいとは休め!』

と私が言っても、

『大丈夫っすヨ!!
  それよりも金子さんが疲れてるんだから
  金子さんこそ、休んでてくださいヨ!』

と言って走り続けていた。やっぱりトンデモナイ奴だ。


 本当に丸1週間はかかるかと思われていた残材の処理が
ナントたった2日間で終わってしまったのは、この時片付けに
来て下さった皆さんのおかげである。

 この時Yは、

『金子さん、うちのオヤジが「がんばってくれ!」って
  言ってました!』

と顔を合わせる度に私に話していた。





 半年が経った4月頃だったか、今の工場が建って木工の
仕事がようやく始まった。ある日曜日、Yさん宅を訪れた。
もちろんこの時のお礼を言うためである。
 Y君のご両親はご自宅におられた。

『おかげさまで、ウチもなんとか仕事が再開出来ました。
  本当にお世話になりました。
   Y君には、お父さんの現場のお仕事の手伝いがあった
    にもかかわらず、ウチの片付けに来てもらって
     しまって・・・』

と私が御礼を言ったら、Y君のお父さんは

『いやあ、アイツがさあ、
  「オヤジ、明日火事になっちゃった先輩のところの片付
   けに行きたい!」
  なんて言うからさあ、俺も、
   コイツも少しは人の道ってもんが分かって来たかな?
    と思ってさ、ホントにうれしかったんだよ。
   だから俺も世話んなった先輩のところなら、どんどん
    行って来いって言ったんだよ。
 
 金子さんこれからも大変だけど、がんばっておくれよ!』

と。私はただただ涙を流すだけで言葉にならず、

『本当に、ありがとうございました・・・』

と言うのが精一杯であった。
 

 普通であれば自分の手伝いをするハズの息子が、それ
をやらずに先輩のところの火事場の片付けに行く、等と
言ったら、

『オマエ、仕送りもらってる身分で
  ナニ偉そうなこと言ってる。
  そんな先輩のところなんか構わんから、
   俺の仕事を手伝え!』

と言うに違いない。しかしY君のお父さんは逆だったのだ。
 



 種明かしが後になってしまったが、このY君のお父さん
は片腕が無い。左腕のほとんど付け根から無い。普段は
義手である。ナント片腕で大工さんをしているのである。
もちろん自動車も運転してしまう。それも元々左手が利き
腕だったという。利き腕を落としてしまったのだ。

 この時伺った話なのであるが、Y君のお父さんは埼玉
県で大工さんの修行をしていて、そして現在の奥さんと
結婚話が決まり、田舎に帰ることになっていた。仕事中
に左腕を落としてしまったのはその結婚話が決まってか
らだという。

『俺はこんな体になってしまったけど、
  それでも俺に着いて来るか?』

の問いに、奥さんは頷いたという。

 田沼へ来てからは、きのこの栽培とかをして生計を立
てていたらしい。しかし当時住んでいた家が余りに痛み
がひどいので、改築の必要が生じ

『俺も元は大工、いっちょうやってみるか!』

の決意の元、ご自分で改築を始めたそうだ。


『実際、俺も始めは無理だと思ってたんだけど、
  やってみたら出来ちゃったんだよネエ・・・』

とご本人は仰っていた。そうしたら近隣の方から

『ウチも直しておくれよ!』

と頼まれ出したという。仕事にするには資格を所持して
おかねばならない。
 この時のエピソードが凄まじいのだが、図面に書き込
むのに当然片腕であるから大変である。しかも制限時間
内に終わさねばならない。結局義手が邪魔になったので
外してしまい、包帯を真っ赤に血に染めながら左手でT型
定規を押さえ続け、見事に資格試験をパスしたという。

 大工さんの仕事を始める時も大変だったらしい。
まず建材屋さんが材料を売ってくれないというのだ。

『Yさん、そんな片腕で大工が出来る訳無いでしょ!』

とハナから馬鹿にして取り合ってくれないというのだ。
町内の建材屋さんを10件以上も回った後か、ある1件だけ

『Yさん、本当にその体で大工さんをするのは大変でしょ。
  値段の面でも配送の面でも出来るだけの協力をする
   から、がんばってくださいヨ!』

と励ましてくれ、取り引きを開始してくれたという。
もちろん今でもこちらとお取り引きは続いている。

『あん時はホントに嬉しかったネエ!!』

とはご本人の弁である。そして周囲の大工さんの嫌がらせ
なんかも結構あったらしい。

 Y君のお父さんの凄さは、これだけには留まらない。まず
弟さんの大学へ行く仕送りをしてやったそうだ。こちらの弟
さんは現在小学校の先生である。そして確かお子さんは
男3人だと思ったが、全員を4年制大学まで通わせている
のである。しかもイチバン下は2浪した上に大学院までか。

 結局のところ、合計して男4人を大学に出しているのであ
る。これもハッキリ言って普通の人間でも、トテツモナク大変
なことである。それをハンディを背負った体でやってのけてし
まっているのである。

 Y君のお父さんはとっても明るい性格だ。上記の話も笑い
飛ばしながら面白オカシク言ってのける。
 だから余計にスゴク思える。

『金子さん、がんばっておくれよ!』

と私に常にかけて下さったこのお言葉の裏には、とてつも
なく大変な人生の苦労があったのである。この方の前では、
私が経験してきたものなど苦労のうちに入らない。

 工場火災では多くのものを失ったが、大変多くの勉強に
もなった。

 そのうちの最も大きな勉強が、このY君とお父さんのこ
とだ。そしてハッキリ分かったことは、苦労を多く経験した
人間ほど他人に優しくなれる、ということである。
 ・・・ちゅらさんのオバアの会話でもあったナ。

 苦労をしていない人間は物事の表面的なことしか見ず、
よって軽ハズミな、軽率なことを平気で言ってくる。これも
私は工場火災の後にイヤというほど体験した。まあこれも
いい勉強になったのは事実であるが。

 私が今まで実際にお会いした方の中で、このY君の
お父さんほど凄まじくスゴイ人生を送ってきた方を、他に
私は知らない。

 すっかり御無沙汰してしまった。

 また近々ご挨拶に伺わねば。


2001年
(平成13年)
7月23日(月)
逃げたらアカン
〜60歳の新人プロゴルファー〜


 先日の(といっても大分前だが)NHK『にんげんドキュメント』
で、古市忠夫さんという方のことを取り上げていた。

 この方、阪神大震災で家屋と店舗(写真屋さんを経営なさって
いた)の全てを失った。地元の自治会の会長、そして消防団の
副団長として出来得る限りの救出活動を行ったが、目の前で命
を落としていく友人を見ていくのが何よりもつらく、悲しかったと
いう。

 震災復興後の生活の糧としてこの方が何を選んだか?ナント
びっくり年齢60歳にしてプロ・ゴルファーになることを決意した
のである。

 常識で判断すれば誰もが
『そんなの無理だ!』
と考えるに違いない。・・・実際奥様も反対されたそうである。
それはそうであろう、若者がチャレンジしてもなかなかなれな
い、狭き門である。競争率がトテツモナク高く、40倍以上な
のだとか。誰もがなりたがる道はとっても大変。・・・現在の
公務員試験がそうであるように。

 ちなみに木工所は仕事が大変な上に儲からないから、誰も
やりたがらない。とっても広き門であるが、その前に後継者
不足でどんどん減っていくのが現実である。

 しかしこの方の決心を支えたのは、あの震災の火災の中で
も焼け残った、ひとセットのゴルフセットであった。それまで愛
用していたもので、普段は必ず自宅に持ち帰っていたものが、
この時だけはたまたま自家用車の中に入れておいて、奇跡
的に焼け残ったのだという。

『たとえ1パーセントでも、可能性があったらチャレンジする。』

の決意の元、ナント見事に2回目のチャレンジでプロテストに
合格してしまったのだ。天晴れとしか言いようが無い。そこに
は他人に語ることの出来ない、大変な苦労があったに違い
ない。

 プロゴルファーと言っても、ツアーの賞金だけで生活出来る
人はほんのひと握りである。そんなに甘い世界では無い。実
際はゴルフ場のレッスンプロで生計を立てている人も多い。
この古市さんもレッスンプロをしていて、新居のローンに充て
ている。番組で放映したシニアの大会では、上位に入ること
が出来ずに赤字になってしまった。

 しかしこの古市さんの素晴らしいところは、プロゴルファー
としての自分の生活だけでは無くて、自治会長として復興
していく神戸のまちづくりも同時に考えていることである。
月2回・日曜日は地元のお年寄りを集めて『お話し会』を開
いている。そして火事があれば消防団の副団長として現場
に自転車で飛んでいく。

 普通に考えれば震災後の生活苦(特に新居のローン)で
とてつもなく大変なハズなのに、それを笑顔でさらりと話し
てしまう姿に大変感動した。そしてもうひとつ感動したのは
奥様の姿。少しでも生活を支えようと震災前に取り引きの
あった企業を回って、写真の現像の中継ぎをして手数料を
稼ぎ出す姿であった。

 古市さんのお言葉

『やっぱり逃げたらアカンのですよ。
  人間何事も挑戦せな!』

まさしくそ通りだと思う。
 ・・・というか一度逃げると癖になる。ずっと逃げ続けるよ
うになる。

 小学館『ラピタ』の記事でも触れられたが、私の場合や
はり工場火災の後に焼け残った、たったひと組みのスピー
カーユニット(フォステクスFE108スーパー)が生きていく
望みとなった。

 体験してみれば分かるが、火災に遭うと全て焼けて消え
てしまったと思い込む。・・・全て無くなったナア、と。そんな
完全に諦めている心理状態の中で過去大事にしていたも
のとかが出てくると、これはトテツモナク嬉しい。
 相手はモノだが、

『おぉ〜、オマエ元気だったかいな〜!!
 よくぞ生き残ったナア〜!!
  エライ! エライ!』

って感じでナデナデしてやってしまった。

 他のスピーカーユニットは全て水を被ってビシャビシャで、
使い物にならなくなってしまったが、ナゼだかイチバン奥に
あったこの限定発売であるFE108スーパーだけが残った
のである。それもひとセットだけ。毎日毎日必死こいて動き
回る中でも、頭の片隅でバックロードホーンスピーカーの
設計をしていて実際に制作に移すことが出来たのは、この
ユニットのおかげである。

 そしてやはり周囲の方からの

『がんばってネ!!』

の言葉が、何よりの励みになった。



 人間どん底に落ちた時に、初めて分かる人間関係という
ものがある。


 私はうわべのキレイ事だけを並べているヤツは信用しない。



 
2001年
(平成13年)
7月22日(日)
カネゴンはゲージツ家?



 写真というのはトッテモ難しい。デジカメで撮った写真はパソ
コンの画像処理ソフトである程度の処理は出来るとしても、や
っぱり元の写真が良くなければダメである。

 私は以前は写真には興味無かったのだが、HPを作り出して
からイヤでもやらねばならなくなった。デジカメそのものと画像
処理ソフトについては、常に情報を仕入れていかねばならない。

 ↑上の写真は昨日制作・加工を終えた長岡先生設計のD-
58ES(フィンランドバーチ仕様)
というスピーカーを工場の中
で撮ったものである。それまでHPに載せる写真というのは必
ずピーカン天気の日に外で撮ってきた。やはりデジカメの
『明るさに弱い』
という欠点を補うためである。また特にフィンランドバーチの
場合には木目と木口の美しさを出したかったためもある。

 この写真のスピーカーはお客様の希望で、側板の前と上を
45度テーパー加工(ナナメカット)したものである。造形的に
結構面白いものになった。ナンダカ日産のプリメーラを思い
出した。いつも通りにこのスピーカーをピーカン天気の元、外
で撮ってみたのだが、とってもツマラナイ写真だ。このナナメ
カットした部分がキレイに出て来ないのだ。

 『やっぱダメなのかなあ?』
と思って工場の中で作業していてふと見たら、夕陽が窓から
差し込んだ光と、表からの光が絶妙にマッチして面白い雰囲
気を醸し出している。早速デジカメを取って来て、100枚以
上撮った中の1枚がコレである。・・・ハッキリ言ってこの1枚
を選び出すために結構な時間がかかっている。ちなみにこの
写真、カンペキにセオリー無視。逆光である。

 もうひとつはこの写真はフラッシュを使用していない。フラッ
シュを使用してしまうと、このテーパー加工したコーナーにつ
いている影が無くなってしまう。ハッキリ言ってレンズの明る
いオリンパスのC−3040ズームだから撮れた写真である。
他のカメラだったら、真っ暗になってしまって補正しても追い
着かないと思う。

 ちなみに画像処理は明るさ補正を2段階明るくしただけ。
その明るさ補正も『ページビルダー』付属の『ウェブアート
デザイナー』である。エッジ処理とかシャープネス処理とい
ったソフトに頼った処理は一切行っていない。・・・というか
慣れていないので、適度な補正がワカラナイ。いつもやり
過ぎてしまってダメにしてしまう。やはりカメラが良くて写真
がいいと助かる。

 そうそうタイトルのこと。

 私の父は元・写真家(アマチュア)で私の兄はデザイナー
(プロ)。そんでもって私はというと・・・、やっぱ芸術のセン
スは無いな。



2001年
(平成13年)
7月21日(土)
続・ソニーの携帯トラブル

 先日発売の「週刊ポスト」に関連記事が掲載されていたので
読んでみたが、まずau・C406Sの
「電池パックから発熱・発火の可能性アリ」
はナント、ハンダ付け不良に依るものだという。いわゆる「いも
ハンダ」ってやつだと思う。中学校の技術の授業で、初めてハ
ンダ付けをやる時(インターホン製作) 先生から注意されたが、
とにかく製造段階における初歩の初歩のミスである。いくら何
でもサスガにこれは説明のしようが無いのではないか。

 ドコモ携帯の回収騒ぎについては
@元々au陣営だったソニーがドコモにまで手を広げたため、開
  発人員が不足していた。
A同様な理由でどうしてもソニーにはドコモから開発資料が来
  るのが遅く、ゆえに開発時間が無く発売が遅れる。実際に
  503iは他社から3か月遅れたそうであるが、機能チェックが
  十分に行われなかった。
の2点が大きな要因らしい。

 いずれにしてもソニーらしからぬ原因、といったところでSONY 
ブランドのイメージの低下は免れない。イメージ低下は携帯電話
だけでは済まないと思う。ビデオでのベータマクスの敗北とは、
全く事情が異なる。果たして今後どの様な対応をしていくだろう
か?

 ソニーに関しては、非常に感心したことがある。以前私はソニー
のアナログカセットテープデッキを使用していたのだが、ある日テ
ープカウンターが動かなくなってしまった。それで修理を依頼して
サービスマンに来てもらったのだが(故障は大した事が無かった)、
後日葉書が来て
「先日伺ったサービスマンの態度は失礼無かったでしょうか?」
というアンケートだったのだ。これにはビックリした。さすがソニー
だと思った。・・・私が大学時代の話であるから、もう10年以上
昔の話だ。

 それにしてもそもそもがナゼにソニーがドコモ携帯電話まで手
を広げたのかが理解出来ない。後発参戦だから苦労するのは
目に見えているハズである。そんなにも販売数量を確保したか
ったのだろうか?ソニー程の企業であれば、自社の開発体力く
らいは把握出来ると思うのだが。

 携帯電話の市場拡大がどこまで続くのかは私にも良くワカラ
ナイが、しかし現在の携帯電話はインターネット機能まで盛り
込まねばならず、しかも新機種発売の度に新機能を盛り込ま
ねばならない。そこでは結局発売してユーザーの手元に渡っ
てから発見されるバグも相当あるという。メーカー側では想定
出来ないものが増えているというのである。
「その機能チェックはどんどんと増加していて、気が遠くなる」
というのが、あるメーカーエンジニアの話である。

 大体において全ての人間が次々と提供される新機能を必要
とするとは思えない。例えばお年寄りが使いたい、という場合
には(以前あったような気がするのだが)逆に機能を基本的な
ものに絞ってしまって、ボタンを大きくして日本語表示をデカク
した方がいいハズである。そしてお年寄りの使用に絞った機
能(例えば受話音量を通常よりも更に大きく出来る、とか)をつ
ければより効果的と思う。

 またソニーなんかはアイボやソネットでも分かるように、イン
ターネット分野で先行しているのだから、ネット受注に限定し
たオーダーメード携帯なんてのも面白いと思う。基本機能の
選択までは無理だろうから、ボディ色を数10色から選べて、
そこにネームロゴでも入れられたら、
「他の誰も持っていない」
という稀少価値が存在するから、
『機能&価格競争』 
から別の所へ逃げられるハズである。

 みんなで同じ方向を見て競争していたら、勝つのは大変だ。