・・・というよりカネゴンの独り言と愚痴のページ

2001年8月のページ

2001年
(平成13年)
8月30日(木)

プロジェクトX
〜新日鉄釜石ラグビー部



 新日鉄釜石ラグビー部と言えば、

『栄光の全日本選手権7連覇。
  スタンドオフ・松尾雄治』

という華やかなイメージしか私は知らなかった。しかしプロ
ジェクトXの放映を見て、これがトンデモナイ間違いである
ことに気付いた。

 全くズブの素人が集まって始まったラグビー部。不況の
あおりを受けての廃部の危機。エリート監督との衝突・・・。

『ラグビーで、会社を町を活気付ける。
  それには全日本選手権で優勝するしかない!
   そのために展開ラグビーに変えるんだ!』

 いわゆるパワーラグビー:体力と体格に物を言わせて
密集戦のゴリ押しをしていたチームが、展開ラグビーに
変更する時には絶対に簡単には行かない。特にフォワ
ードの選手が猛反対する。それまでは自分が球を持っ
たらひたすらまっすぐ前に進んでいればヨカッタのが、
展開ラグビーではひたすらポイント目指して走らねばな
らないから、走る量がメチャクチャ増えて猛烈に疲れる。
そしてせっかく球を奪っても、それを自分で持って走らず
にすぐさまバックスへ供給しなければならないからだ。
自分ではトライが取れないから、ヒーローになれない。

『All For One,One For All.
  :みんなはひとりのために。
    ひとりはみんなのために。』

↓以前ナンバーで読んだ、元・近鉄ラグビー部監督の話。

『ええか、トライを取った奴がエライのとちゃうねん!
  エライのは、その球を出した奴や!』

 だから、ラグビーではトライを取った選手がひとりで喜
んではいけないとされている。そのトライは、全員で大切
に球をつないでいった結果だからである。・・・まあこの
辺の感情表現はその人次第であるし、チームの考えも
あると思うからイチガイには言えないが。

 話は戻って、全日本選手権では早稲田大学と対戦し
た。あの現代ラグビーの礎を築いたとされる、大西監督
が率いるワセダである。展開ラグビー同士の対戦、最
初の対決はワセダに軍配が上がった。

 2度目の対戦で、見事に新日鉄釜石が勝利する。その
大西監督からの

『見事な展開ラグビーでした』

との言葉。これ以上の賛辞は無いハズである。


 不況と言えば、真っ先に企業は運動部を廃部にする。
しかしこれは間違いでは無いか? スポーツ選手の活
躍は、皆を勇気付ける。現に日本人は皆 海の向こうの
イチロー選手の活躍に勇気付けられているハズである。

 私も今回戸田ケイイチ君が優勝してくれたことで、とても
元気付けられている。やっぱり優勝はエエナア、と思う。
昨年の舵手無しクオドルプルは、日大に敗れて2位だった
から・・・。


2001年
(平成13年)
8月29日(水)

ボート大学選手権終了
三柴和範君のスィープ挑戦


 ボートでは両手各々1本づつ、合計2本のオールを漕ぐ
種目を『スカル』と呼び、左右どちらか1本のオールを漕ぐ
種目を『スィープ』と呼ぶ。

 中大ボート部のもうひとりの佐野高校ボート部OBである
三柴君(3年)は、高校の時からずっとスカルを漕いでいた。
佐野高校時代にボート部で彼の代は皆辞めてしまい、彼
ひとりだったのである。さぞかし寂しかったろうと思う。愚
痴をこぼしながらも、よくぞ最後まで続けてくれたと思う。

 彼が3年生の時は、一昨日書いた戸田君とコンビを組ん
でダブル・スカルを漕いでいた。性格も正反対のこの2人、
よくもまあ、喧嘩しながらいっしょにやっていたと思うが、
漕ぎも非常にヘタクソであった。
 ↓いつもの会話

三柴&戸田:『金子さん、僕達の漕ぎ、どうですか?』

      私:『うん、ヘタクソ!』

三柴&戸田:『そんなぁ〜〜
         もっとちゃんと教えて下さいよ〜〜!
         ここがこうだとか、あそこがどうだとか、
         もっと具体的に、分かり安く・・・』

      私:『うるせぇ! バカ!!』

三柴&戸田:『なんで、いつもそう・・・』

 これで終わり。とっても単純で簡単な指導。・・・指導な
どというものは何もしてないな。
 ところがこのヘタクソ・コンビが、全国高校総体(インター
ハイ)では栃木県選手として初めて準決勝まで進んだの
だからタマゲタもんだ。・・・結構組み合わせもヨカッタが。

 彼のことはとても良く覚えている。私が国体の監督で
神奈川県の相模湖の旅館にいた時、携帯に電話がかかっ
て来たからだ。

『金子さん、中大ボート部のセレクションを
  受けようと思うのですが、どう思いますか?』

 彼は高校の現役引退後、ボートのセレクションを実施し
ている大学のボート部を調べて回ったのだ。やはり各大
学ボート部特有の伝統とキャラクターがある。その上で
中大ボート部を選んだのだという。もちろんセレクションを
受ける際の様々な基準をクリアーしていなければならない
が。もちろん、私が大賛成したのは明白である。

 慶野と同様、彼のセレクションも非常に心配したが、
取ってもらえた。

 中大に入部してからも彼はずっとスカルであった。まあ
元々スカルだから当然かもしれないが、昨年 国体出場
のために栃木の選手としてはスィープ(ストロークサイド)
を漕いでもらったが、実際私が見てもこれは相当に練習
せねばと感じた。

 ところが今年中大では、スィープに初挑戦で慶野と同じ
艇の舵手無しフォアでインカレに出場した。まあとにかく
今年は大変だったであろう。
 国体には栃木県代表としてシングル・スカルで出場して
もらう。

 三柴は結構マメに掲示板に投稿してくれた。

 高校の時はマトモな口のききかたも出来ずに、いつも
私に怒鳴られていた。マシヤマ曰く

『三柴はいつも金子さんに怒られている・・・』

という状態だったのだが、中大に入ってから非常に話し方
がしっかりしてきた。寮生活の中で先輩から学んだので
あろう。中大ボート部の皆さんのおかげである。

 また彼の文章はまさに『幼稚園生のごとく』ヒドイもの
で、漢字間違いもしょっちゅうで掲示板でも後輩高校生
の突っ込みを受けていたし、私にもしょっちゅうミスを指摘
されていたが、最近非常にマトモな文章になった。これ
はネットのおかげか。

 私も『このバカタレが・・・』と思いつつもナンダカンダと
接しているのは、彼のお父さんの

『金子さん、
 頼れる先輩がいるというのは、親としてこんなに
  安心なことはありません。』

というお言葉が思い出されるからである。

 また佐野女子高校ボート部OGも含めて、何かの機会
でご両親どちらかにお会いした際、

『金子さん、本当にお世話になります。
  うちの子をよろしくお願いします。』

などと挨拶されてしまうと、これもまたマイッタナ、しゃあ
ないな〜と思う。・・・私は学校の先生では無いし、大した
ことはやっていないのだが。

 親のひと言というのは、実に重みがある。

 ただ最近は、自分は素晴らしいボートの後輩達がいて
幸せだと感じている。

2001年
(平成13年)
8月28日(火)

ボート大学選手権終了
慶野慶一君の大学最後のレース


 今回のボート大学選手権は実にいろいろなことがあった。
戸田君の舵手付きフォアの優勝は、まあ ある程度予想が
ついていた。先の東日本選手権で社会人強豪チームを抑
えて優勝していたからだ。

 佐野高校ボート部OBの慶野君は4年生。大学最後の
インカレとなった。彼はやはり佐野高校ボート部OBで3
年生の三柴君と共に舵手無しフォアで出場したが、残念
ながら決勝進出ならずに順位決定レースに回り、この
レースで2位となり総合順位は6位であった。

 慶野君は元々体が細く、全国高校総体(インターハイ)
でも準々決勝止まりであった。引退後進学をいろいろ悩
んだようであるが、ある日近くのコンビニエンスで週刊誌
を立ち読みしていたらたまたまいっしょになり、

『オマエ、進学決まったんか?』

と私が聞いたら

『△△△大学の推薦を受けてみて、入れたらそこで
  ボートをやろうかと・・・』

と彼は言った。この△△△大学というのはボート部はある
が、あまり強くは無い。
 私も良くは覚えていないのだが、

『△△△大学でボートやっても、あんまり意味ないんじゃ
  ないか?』

とかいうことを話したような気がする。
 そうしたら中央大学ボート部のセレクションを受けていた。

 私の佐野高校ボート部の先輩では、初代の水戸部さん
(中央大学ボート部では阿部さんと同期)、そして私の同
期の第6期の蔵田君がセレクションで入部していたが、
慶野君は第18期なので実に12年ぶりのセレクション入
部なのである。事実上、三柴(3年)、戸田(2年)と続く
扉を開いたと言ってよい。

 私は彼が果たして最後まで続くかどうか非常に心配した。
ボートをやる人間としては体が細くて、体力も実績も無い。
しかし彼はがんばり続け、新人戦ではエイト優勝、軽量級
でもエイト優勝を果たしている。

 彼が中央大学ボート部で4年間ボートを漕ぎ続けたこと
は、彼の一生の財産になるはずである。残りの時間で、
これから自分の進むべき道をしっかりと見つけてもらいた
い。
 
 ボートはとてつもなくツライスポーツである。何しろ練習
中でも試合中でも、心拍数は限界に近付くのだから。どこ
まで自分を追い込めるかが、勝負なのである。

『例えどんなにつらくても、スタートしたら途中で漕ぐのを
  止めてはいけない。』


ただただ、感激!
↑平成13年8月26日(日) 全日本大学選手権 男子舵手付きフォア決勝 
優勝3レーン:中央大学クルー
(手前4レーンは第2位の東京経済大学クルー)

↑レース終了、ミーティング終了後の記念写真(中央大学・戸田艇庫前にて)
後列左
コーチ:阿部肇さん
    中央大学-マツダオート東京-インテック
     現在 日本代表チーム コーチ
     ロスアンゼルスオリンピック、ソウルオリンピック、
     バルセロナオリンピック日本代表

後列右
コーチ:蔵田和彦君
    (佐野高校ボート部OB:私と同期)
     中央大学-NTT東日本東京
     NTT東京時代に日本代表、
     アトランタオリンピック舵手無しペアー日本代表

前列左より(レースのシートと同じ並び)
ポジション ストローク 3番 2番 バウ コックス
選手名 児玉 一成  戸田 圭一 松本 竜一 山口 慶幸 大戸 淳之介
身長 180cm  183cm  182cm 183cm 173cm
体重 70Kg 75Kg 77Kg 78Kg 55Kg
年齢 20歳 19歳 19歳 19歳 19歳
出身高校 栃木県立
佐野高等学校
群馬県立
館林高等学校
2001年
(平成13年)
8月27日(月)

ボート大学選手権終了
戸田圭一君の優勝

 チト空いてしまったが、スピーカー制作してたらなかな
か作業が進まずに夜中になってしまい、昨日はボートの
大学選手権(以下 インカレ)があるので朝から出かけて
しまった。

 
 まだ全然写真の整理が終わっていないのだが、とりあ
えず2枚だけセレクトしたのが上の2枚。

 本当に感激。

 佐野高校ボート部OBの戸田圭一君の乗る中央大学
クルーが、見事に優勝を果たした。これは私と同期の
蔵田君(↑写真後列右)以来だから、10数年ぶりにな
る。正直 蔵田君が卒業してから、佐野高校ボート部の
OBでインカレ優勝者は出ないかもしれないと思ってい
た。

 そんな思いもあったし、彼は佐野高校ボート部顧問の
戸田先生の息子。私は彼が中学の時に会った。・・・
その頃からデカかったが。

 そして蔵田君のレースはまず1人で寂しく見ていたが、
今回は栃木県関係者が多く戸田コースに応援に来て
いた。

 いろんなことが思い出されて来る。



2001年
(平成13年)
8月24日(金)

消防団の旅行


 『今年の旅行はグアムだから!』
私が消防団の勧誘を受けた時、当時のS団長さんのこの
言葉にグラっときて(ハッキリ意って騙されて)消防団に
入ってしまった。・・・がしかし、私はてっきり町のお金で
旅行に行けるもんだとばかり思いこんでいたら、ナント各
々の団員の積み立てであった。これが不幸の始まりか?

 ウチの分団の場合は今年は国内。・・・ドコだったかな、
確か1泊だ。今月の30日(木)・31日(金)なのだが、
この月末の予定というのは仕事的に実にヤバい気がする
のだが・・・。

 今年は私も久々に行ける。多分4年振りくらいだと思う。
いつも夏季国体と重なってしまっていて、ボートの監督で
行かねばならなかった私はこちらを優先せざるを得なか
った。今年はやっとお役ゴメンだ。

 仕事をがんばって片付けておかねば。


2001年
(平成13年)
8月23日(木)

インカレ


 ボートの大学選手権のことを『インカレ』と呼ぶ。インタ
ー・カレッジの略である。ボートでは全日本選手権と並ん
で最大の試合である。ただ最終日(決勝)はインカレの方
がはるかに賑やかである。全日本選手権だと、やはり
最終日は社会人の方が多いが、インカレだと各大学の
応援が凄まじい。

 私が大学の時は、栃木県出身で選手として出場してい
たのは蔵田君(アトランタオリンピック代表)だけだった。
わずか1人である。

 ところが今年は、佐野高校ボート部&佐野女子高校
ボート部出身者だけでも、

・中央大学から選手として3人
  (4年:慶野、3年:三柴、2年:戸田)

・東京商船大学から選手として1人
  (1年:清水)

・東京大学の女子マネージャーとして2人
  (4年:飯島、2年:小関、どちらも白百合女子大学)

・法政大学の応援として1人〔チア・リーダー〕
  (4年:大島)

 上記7人が最終日に戸田コースにいるのである。他に
まだ栃木県の他の高校から入って大学で始めた部員も
いるので、上記の人数よりも多い。

 時間が経ったナア、と思うし、よくもこれだけの人数に
なったナアとも思う。

『継続は力なり』

なんちゃって〜!!。

 台風で天気が心配されたが、今日予定通りに予選が
始まった。


2001年
(平成13年)
8月22日(水)

台風上陸


 台風直撃で落ち着いて眠れなかったが、ナント時速
15〜20Kmという遅い速度で、まだ東海地方近辺
(午前8時)。朝起きて、てっきりもう通過したのかと思
ったら関東地方は今日の午後だという。こりゃマイッタ。

 丸2年ぶりの台風の本土上陸らしい。

 私の場合は常にヤフーの天気予報とニラメッコで仕事
の予定を立てている。昨日の昼まではずーっと

『いつものごとく上陸を避けて東へ逸れないか・・・?』

あるいは

『いつものごとく上陸前に温帯低気圧に変わらない
 か・・・?』

と期待を寄せていたが、意に反してまともに関東地方へ
向かってきた。お昼のテレビを見て観念した。午前の
うちに外でフォークリフトで行う作業は終了させていたが、
午後イチでシャッターを閉めてつっかえ棒を立て、本の
購入、レンタルビデオの返却を済ませ、ジョイフル本田
まで行ってしまった。どう考えても今日車の運転は危険
だと思ったからである。・・・事実そうであるが。昨日は
雨は降っていたが、まあ普通に運転出来た。

 外へ出る用事は全て昨日済ませてしまったので、今日
はゆっくりと工場の中で作業出来る。

 こんな時に外へ出ずに済む製造業の自営業はイイナア
と思う。



 昨日NHK総合にて予定通りに
『プロジェクトX・リーダーたちの言葉』
放映。先に本で読んでいたので内容は知っていたが、
やはり映像の説得力は違う。

 とってもシンプルだけども説得力のある、日本女子ソフト
ボールの監督・宇津木妙子さんの言葉。

『努力は裏切らない。』
 


2001年
(平成13年)
8月21日(火)

ヤマダ電気 館林店


 いよいよ台風が上陸。丸2年ぶりだとか。消防団の出動
も心配である。

 ここ北関東ではコジマ電気とヤマダ電気の争いが熾烈
であるが、中でもお隣・群馬県館林市はスゴイ。何がスゴ
イってお店がお隣同士なのである。
『道路を挟んで向かい合っている』
のではなくて、道路の東側にまさしく隣接しているのであ
る。初めて見る人は誰もがビックリするに違いない。どっち
が先でどっちが後かは知らないけど。

 最近(消防の練習をやっている頃だから、6月か)ヤマダ
電気の方が全面改装・リニューアルオープンした。その時
の様子は凄まじく、広告ではわずか数円の電気製品とか
がズラリと並び、開店前にはモノスゴイ行列になったとか。
ただでさえ混み合う道路が大変な混雑だったと思う。

 何で今ごろ書いているかというと、私が今日やっとこお店
に行ったからだ。普段はどうも館林には足が運ばない。道
路が混むからなのだが、今日は午後イチで台風に備えて
工場のシャッターを閉めてつっかえ棒を立てた後、やっぱり
気になって渡良瀬川に様子を見に行った。そしたら
『どうせここまで来たのだから・・・』
と館林まで行ってしまったのだ。

 ほぼ1階分を全面駐車場にしてあり、店舗は2Fのみ1
フロアーといった感じ。そのおかげで雨の日でも濡れずに
お店に入れるのは大メリット。そして店内の広さもさること
ながら、うれしかったのはパソコン関係のスペースが広い
こと。DOS/V関係のパーツまで置いてある。

 ちなみに比較の対象として私の場合は音楽用CD-Rの
74分×10本パックの値段を見る。今までだとコジマ電気
の1,580円(ソニー・カラータイプ)だったのが、ついにヤマ
ダ電気が更新! TDKで1,480円だったので、迷わず購
入した。そしてポイントカードも作成した。

 そして営業時間にもビックリ!ナント夜の9時まで開いて
いるという。ホームセンターで買い物した後にゆっくり行け
るのだ。これはスゴイ。・・・従業員さんは大変だろうが。