・・・というよりカネゴンの独り言と愚痴のページ

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2001年
(平成13年)
11月30日(金)

ラグビー早明戦
思い出の試合 その1



 いよいよ12/2(日)はラグビーの早明戦である。
最近早稲田の低迷で見ていなかった記憶があるが、
今年は非常に楽しみだ。現時点では早稲田の対抗
戦グループの優勝が濃厚だが、そんなことよりも
どんな内容になるかが興味深い。

 ラグビーは近年は社会人と学生との実力差が目立
つが、それでも早明戦なのだ。・・・そうそう、早明戦
とは 早稲田大学 対 明治大学である。

 何といっても全てに好対照。
・フォワードの明治、バックスの早稲田
・縦の明治、横の早稲田
といった具合。基本理念は明治大学が故・北島監督
の『前へ』、早稲田大学が故・大西監督の『接近・連
続・展開』。


 やはり思い出のその1は、早稲田大学が全日本選
手権で東芝府中を破って日本一になった、昭和62年
(1987年)。私が大学2年生の時だ。この年の早稲
田は木本監督の元、徹底したディフェンスの固いラグ
ビーをして来た。その練習時間のほとんどをディフェ
ンスに費やしたと言われるほどに、
『負けないラグビー』
を続けて来たのである。ガツガツ点を取ることは無い
が、失点を最小に抑える「鉄壁のディフェンス」が持ち
味であった。


 ナントこの日は大雪。滑る地面ではフォワードの強い
明治大学が局地戦に持ち込めば、圧倒的に有利であ
る。
『攻める明治、耐える早稲田』
早稲田ゴールライン手前5メートルのところで、何度も
スクラムが組まれた。・・・やがて選手の汗が水蒸気
となってもうもうと立ち上がった。このシーンは伝説と
なりつつある。第一近年は暖冬で12月には雪が降ら
ない。

 そして明治の猛攻を耐え凌いだ早稲田が勝利を収
めた!。大学選手権に入ると、怪我から復帰した藤掛
選手(我が佐野高校出身!)がセンターに入って大
活躍!この年の早稲田のスーパー1年生トリオの
堀越選手(スクラムハーフ)、今泉選手(始めウィング、
後日フルバック)は、確か皆日本代表のキャップを取
ったと思った。

 ただこの年はどちらかというと地味な仕事に徹した
フォワードが強かったと思う。春先では社会人に簡単
にスクラムでめくられてしまったというが、シーズンと
共に成長して明治大学相手にも耐え切った。平均体
重は確か80Kg代だったと記憶しているが、とにかく
フォワードの肉体接触戦を避け、少ない人数でラック
の球を出してバックスへ供給した。またスクラムでも
同様で、押し合いを避けるために
『ダイレクト・フッキング』
という非常に高度な技術を用いた。スクラムハーフが
球を入れるのと同時に、フッガーが蹴り出してしまう
のである。これは相当に練習しないとタイミングが合
わない。

 また「相手よりも先にスクラムを組んで待つ」事を
徹底していたために、とにかくこの年の早稲田はフ
ォワードがポイントに集まるのが早かった。その中
でもスクラムの中心になる2番:フッガーの選手が
真っ先にポイントへ行かねばならないのが、この地
味で目立たないポジションを見事にこなしたのが森
島選手である。試合中でも本当に良く走っていて、
ラインアウトではスロワーも努めていた。

 そしてそのスクラムは相手との体重差をカバーす
るために、地面を這うような低さであった。これは
特に足腰にモノスゴイ負担になるのだが、とにかく
この年の早稲田はフォワードの体格差&体重差の
ハンディをいかにして補うか、という工夫を随所にこ
らしていたのである。

 最後はやっぱり永田キャプテン。軽々しい、浮わつ
いたところが全く無く、常に冷静沈着。部員が120
名にもなるという早稲田のラグビー部をまとめ上げ、
見事にチームを日本一へと導いた。私が今まで見た
中では、学生でありながら最も「大人」という感じが
したキャプテンである。


2001年
(平成13年)
11月29日(木)

リストラ


 最近当たり前のように耳にする、とっても嫌な響きで
ある。どうにも 

リストラ=人員削減 

のように受け取ってしまうが、本来の意味は 

リ・ストラクチャリング = 再構築 

というものであるハズだ。ビジネスで言えば、経営の
効率化のハズである。

 まあ利益が無ければ人員削減が最も手っ取り早い道
なのだろうが、利益が上がると景気良くボーナスの大盤
振る舞いをした上に本業とは全く関係の無いものに投資
をしまくり(その投資が価値を無くし)、利益が無くなると
トットト人員削減、というパターンは余りにも短絡的過ぎ
るのではないだろうか?


 大企業の経営陣の皆さんは優秀な大学を優秀な成績
で卒業した方ばかりなのだろうが、どうにも経営に関す
る能力へとは直結していないように思える。ハッキリ言
って日本の学校では人生に役立つことなど教えていな
い。一般社会では全く必要の無い、訳ワカンナイ理論を
習っている時間に、本田宗一郎氏の伝記でも読んだ方
が余程イイ。NHKのプロジェクトXのビデオを見た方が
余程イイ。

 大成火災の経営破綻などは(再保険などというシステ
ムは初めて知ったが)、保険素人の私から見ても
『???』
である。



 ちなみに

「希望退職を募ると、残って欲しい優秀な人間が先に
 辞めてしまい、本来は辞めて欲しいそうでない人間
 が残ってしまう。」

という話は本当のようだ。マツダでも松下電器でも、
募集指定日時からの開始僅か数分で規定人員をオー
バーしてしまったという。これは経営幹部が皆ビックリ
したらしいが、優秀な人間は辞めても次に行く会社が
既に決まっているから、スグに辞められるのだ。

 ちなみに松下電器の場合、ある開発部署のチーフと
も言うべきキー・パーソンの人間がとっとと辞めてしま
って大変らしい。ナンダカ製品開発が出来なくなって
しまいそうだとか。人員削減の話が出た段階で、他社
からヘッドハンティングで引き抜かれて話が決まって
いたのである。

 まあこういう方は優秀なごく一部の方の、極めてマレ
な例であるハズだ。良く、

『私は転職してこんなに給料が上がって成功した!』

とか

『私は脱サラして独立してこんなにも成功した!』

なる書物があるが、あれも極めてマレな例である。全
体のパーセンテージであれば、ほんの数パーセント
であろう。元々の能力が極めて優秀でモノスゴイ努力
をした人が、時代の流れ&要請と噛み合った上で(こ
れが学校の勉強とビジネスの最も違うところ)、初めて
無し得たものであるということを、頭に叩き込んでおい
た方がイイ。ああいうものを読んで鵜呑みにして、
「よし、俺も!」
と単純に考えて失敗すると、借金ばかりが増えて取り
立てから逃げ惑うことになる。

 私の場合、どちらかというと失敗例を読んでいた方が
勉強になっている。人間で言えば反面教師だ。


 どんな場合でも基本は

『自分の能力と得手・不得手を把握しておく』

事ではないかな?という気がしている。


 やっぱり、自分の誕生日が祝日にはならないみたい
だ。雅子さまのご出産は12月にズレ込みそう。



2001年
(平成13年)
11月28日(水)

ヤマダ電機、逆転!


 先日の下野新聞(栃木県の地元新聞)の朝刊に、

『ヤマダ電機(本社・群馬県前橋市)、
  コジマ電気(本社・栃木県宇都宮市)を抜いて
  売り上げ高日本一に』

との記事があった。やっぱり、という思いの方が強かっ
た。これに対するコジマ電気の小島社長のコメントは、

『店舗の大型化に乗り遅れた。
  当方もこれから取り組む。』

とのことであった。

 実際私は最近は館林市のヤマダ電機に行ってしまう。
車で30分弱であるが、特にこれといった目的が無くて
も行ってしまう。・・・まあそういう場合でもCD-Rを購入
して来てしまうが。

 私の行ってしまう理由としては(以前書いたかもしれ
ないが)、

@店舗が広くてゆっくり見れる
Aテックランドを統合しているので、パソコン製品・
  パーツが豊富
B夜9時までお店が開いている。 
  (コジマ電気は夜8時までだが、この夜の1時間の
   差は大きいと思う。)
Cポイントカードがある

といったところか。あとデジカメが並ぶのも早いのだ。
オリンパスの4040が発表と同時に並んでいたのに
は驚いた。

 これからコジマ電気が巻き返すかどうか興味津々だ。
ただ価格が安いのは我々消費者にとっては非常に嬉し
いことであるが、常識を超えた安値販売で共倒れにな
らないように祈っている。

 まあこれは電気業界だけのことでは無いのだが。


2001年
(平成13年)
11月27日(火)

FMfan休刊


 炭山さんに会う度に、

『発行部数が落ちてるんですよ・・・』

と聞いていたが、ついに12/5号を最後に休刊になる。
最後のFM誌が、ついに消える。

 事実上、CDがレンタル解禁になった段階で、

『FMをエアチェックする』

という行為が消えたといって過言では無いと思う。
学生の頃の小遣いではレコードやCDが購入出来ない
から、必死こいてFMをエアチェックした。番組表に蛍光
マーカーで印をしておき、その時間に部屋にいる場合は
ナレーションの切れ目の録音開始のタイミングを狙って
いたし、不在の場合はタイマー予約していた。

 レンタルCDを利用してしまえば、デジタルの入出力で
一発でMDやCD-Rに録音出来る。レベル調整も必要
無い。さらに最近では4倍速が出ているから、通常の
1/4の時間で録音が終了してしまう(私は持っていな
い)。

 
 ただFMfanが特別な存在だったのは、長岡鉄男先生
の『ダイナミック・テスト』があったからだ。他の評論家先
生方の製品評価記事を読んでも、ハッキリ言ってその製
品が良いのか悪いのか、どんな特徴があるのかがサッ
パリ分からなかったが、長岡鉄男先生の評価記事だけ
は大変分かり易く、私は高校の頃から毎号欠かさず購
入していた。FMを聞かなくても、である。

 長岡先生の評論のポイントを簡単に上げると、

・その価格帯での基準を元に評価。CP(コスト・パフォ
  ーマンス)を重視。

・ハードな音か、ソフトな音か、どんなソースに向くかが
 分かり易い

といったことがあると思うが、何と言っても製品の蓋を
外してしまうことがイチバンの大きな違いだと思う。
スピーカーであればユニットを外してしまう。そうして各
パーツの寸法や重さまで丹念に測って行ったのだ。

 私もテストの場にお邪魔させていただいたが、この
作業はモノスゴク大変である。私達が作業して計測
していったデータを長岡先生は手帳に記入され、私
達が解散してから夜原稿をお書きになっていたのだ。
その際、モデルチェンジなどの際には必ずその前の
モデルのデータと内部写真を引っ張り出して来て、
比較しながら原稿を書く。大きなものではトランスの
大きさ・数、コンデンサーの大きさ・数、パーツや基
盤の配置、等など。

 だからもしもテストの場で本領発揮せずとも、

『これだけのパーツを投入しているのだから、エージ
 ングで良くなるに違い無い。』

との記述が添えられたりしていた。また長岡先生の
ところで調子悪くても

『方舟では相性が悪かったが、一般的なJ-POPの
 再生には好適であろう。』

との一文が加えられていたのである。


 実際に雑誌が無くなるのは非常に寂しい限りだが、
これも時代の流れで仕方の無いことなのだと思う。


2001年
(平成13年)
11月26日(月)

消防通常点検終了


 昨日は空いてしまったが、消防団の通常点検&忘年会
の、消防の1日。朝8時に小屋集合で、9時から町の中心
地を行進。10時〜12時まで総合グラウンドで服装点検、
操法実演、表彰式、夜は6時から忘年会、帰宅したのは
12時近かった。丸2時間の立ちっ放しは実にキツイもんで、
今日は非常に腰が痛い。頭も痛い。

 あまりにもダルいので、今日はとっとと寝ます。

 おやすみなさいませ。


2001年
(平成13年)
11月24日(土)

ワセダ復活!


 夏はボート、冬はラグビーである。これは私が高校を
卒業してからの決まりなのだ。もうこの感覚が体に染み
ついている。皆さんもイギリスのスポーツを好きになりま
しょう!・・・そしてカネゴンの話し相手になってください
ませ。

 実際にはラグビーは10月にはシーズインしていると
思うが、本格的にテレビ中継が始まるのがこの11月
末。まずは大学ラグビーの 早稲田大学 対 慶応大
学の伝統の『早慶戦』で幕を開ける。

 慶応大学はラグビーのルーツ校であるが、永らく低迷。
しかし創部だか創立だかどっちだか忘れたが、100周
年を機に上田監督を迎えて大学ラグビーの頂点に立っ
た。ここ数年は大学ラグビーのトップクラスの実力だ。

 対する早稲田大学は慶応と入れ替わるようにここ数年
低迷。「これじゃイカン!」ということで今年は体制を入れ
替えて清宮監督が就任した。

 今まで早稲田の監督というのはOBの社会人が週末の
練習に顔を出すだけだった。・・・まあそれだけでも大変な
ハズだが、普段の練習はキャプテン以下の部員に任され
ていたのだ。しかし今年から早稲田は平日も監督がつき
っきりで指導出来るように体制を変更した。これは会社の
相当の協力が無ければ出来ぬことであるが、その第1号
が清宮監督という訳だ。

 清宮監督は早稲田大学時代はナンバー8でキャプテン
を努めている。「ショートライン」と呼ばれる、ニュージーラ
ンドのコーチ直伝の独特のバックス攻撃を導入して、この
年の大学選手権優勝を果たした。・・・確か年代は間違っ
ていないと思うが。この年の早稲田の練習は時間の大半
をその独特な攻撃に費やしたため、ディフェンスが甘かっ
た。

「点は取るけど、取られる」

という、どちらかというと早稲田らしくない大味な戦い方
であった。この年の全日本選手権・決勝では神戸製鋼
が相手だったと記憶しているが、試合そのものは全く
早稲田のいいところが無かった。

 ちなみにこのショートライン攻撃はこの年だけで終わ
っている。バックスが常にフォワードの近くで攻撃する
ので、球の継続がしやすいというメリットがある反面、
フォワードの負担が非常に大きくなったからだ。見てい
る方からすると、明治大学のような狭いスペースの密
集近辺で勝負する戦法であった。

 清宮監督はその後サントリーへ進んで、やはり日本
選手権で優勝している。日本代表のキャップを持って
いるかどうかは不明だが、『勝ち癖』ともいうべき貴重
なものを持っていると思う。早稲田大学のキャプテンと
しての評価は

『黙って行動で示す』

というタイプだったらしい。

 前置きが長くなったが、下馬評では慶応有利だったの
だが、ところがビックリ、予想以上の大差をつけて早稲田
がリードしている。私が見たのは前半終了くらいだったが、
後半開始早々にノーホイッスル・トライ。

『おお!伝統の早稲田のオープン攻撃だぁ〜!!』

と感激してしまい、結局工場の中で仕事の手を止めて
試合終了まで見てしまった。54対21で早稲田大学の
完勝。・・・早稲田ファンには最高の試合であった。

 私が見たポイントは2点で、

@ラックの球出しが早い
A非常に広いスペースを使ってオープン攻撃している、

であった。上記2点の理由で、慶応のディフェンスがつい
ていけないのだ。

 後半やや慶応が盛り返すも、結果は早稲田の大勝で
あった。非常に素晴らしいラグビーであった。


 早稲田のラグビーは『組織的ラグビー』と言われていて、
こういう場合にはこう対処する、という決まり事の上にゲー
ムが進められた。だから様々なパターンを練習で積み重ね
ておく訳だが、このパターンが相手に研究されて読まれて
しまうと、対処されやすくなる。

 その辺を変えていったのが大東文化大学で、早稲田とは
対照的な『自由奔放なラグビー』で早稲田に勝って大学チャ
ンピオンになった。・・・フッガーのドロップゴールには本当
にビックリした。

 その自由奔放、をさらに高度にしたのが神戸製鋼の平尾
キャプテン。『状況判断でスペースをつく』ラグビーで、神戸
製鋼黄金時代を築いた。フォワードの密集ゴリ押しから、ラ
ンニングラグビーへの転換となった時期であろう。


 清宮監督が就任した際、まず部員たちに求めたのは

『状況判断をしろ』

だったという。学生が社会人にイチバン劣っていた部分で
ある。やはり「スペースをつく」という思想を持ち込んだそ
うである。そして練習時間は2時間と短くしてしまった。
多分今までの半分くらいではないかと思うのだが、その分
練習の密度を上げているという。人間の集中力が持続する
時間は2時間が限界だと思うから、私も賛成だ。

『状況判断&集中力』

スポーツでも仕事でも、必要な能力は同じだと思う。


 いよいよ12月2日(日)は伝統の早明戦。早稲田大学 
対 明治大学 である。しかも対抗戦の優勝をかけての
戦いになる。非常に楽しみである。

 社会人ラグビーは、やっぱりサントリー強し。三洋電気
にもっとがんばってもらいたいのだが・・・。



2001年
(平成13年)
11月23日(金)

ほんまもん


 高い評判が広まり、お店も拡張して順調に軌道に乗
るかに見えた一路(いちろ:主人公の父)の店だが、

「味が落ちた」

と評判を落とし、次第に客足が遠のく。舌の異変に気付
いたところで、起死回生の出資者の食事会を木の葉(こ
のは:主人公)の応援もあって見事に乗り切り、これから
復活かと思いきや、その夜に一路が倒れる。舌の異変は
過労のせいでは無く、舌(ぜつ)ガンであった・・・。

 最近のストーリーはざっとこんなところで、商売の厳し
さを実感させられる。そして舌が生命の商売で、その舌
が使い物にならなくなるという、最悪の事態に直面して
いる。果たしてこの先どういう展開になるであろうか?


 作曲家のベートーベンは、耳が聞こえなくなってからも
音楽活動を続けた。その原因は、ワインに含まれていた
鉛による中毒ではないかというのが、先日放映された
日本テレビの特命リサーチ200Xによる最近の研究成果
らしいが、それはまあさておき、ベートーベンはピアノに
歯を当てて、その振動を感じることによって音を判断して
いたらしい。凄まじい執念だ。第9交響曲は耳が聞こえ
なくなってからのベートーベンの作品であるが、あの合
唱からは(歌詞の内容は良く知らないが、確か喜びの歌
とかいう内容)、ベートーベンの魂の叫びが感じられるの
だ。やっぱり私はモーツァルトの女性的な上品な調べよ
りも、ベートーベンの男性的な力を感じる調べが好きで
ある。

 小学校の頃にベートーベンの伝記は何冊も読んだ。
第9交響曲は「合唱」との副題がある通りに、交響曲と
コーラスを組み合わせるという初の試みで、ベートーベ
ン自身かなり不安があったらしい。

 その第9交響曲の初演はベートーベン自らが指揮した。
演奏が終了した時、観客に背を向けていて耳の聞こえな
いベートーベンは何も分からない。その事に気付いた楽
団の一人がそっとベートーベンに近寄り、後ろを向いて
観客の方を見るように奨める。ゆっくりと振り向いた彼の
目に見えたのは、観客全員が総立ちになって、会場が
割れんばかりの拍手を贈る光景であった。その時初めて
ベートーベンは第9交響曲の成功を知るのである。

 もうすぐ12月、第9の季節になってしまった。


 昨年の今日が、私の父が入院した日である。早いもの
だ。もう1年も経ってしまった。昨年は朝4時頃に病院へ
担ぎ込んだのであるが、今朝はお茶の間にいた父の姿
を見て妙に安心してしまった。現在放映中のほんまもん
の各シーンが、昨年の今ごろの自分たちの状況を思い
出して妙にオーバーラップして来る。


 
2001年
(平成13年)
11月22日(木)

本田宗一郎氏


『いや〜、小学校の頃に友達と川で遊んでたらさ、
 いつの間にか川の中に落ちちゃってたみたいでさ、
 気が付いたら皆が心配そうな顔して、
 俺の顔を覗き込んでるんだよね。
 どうも俺その時死にかけてたみたいだ。
 俺今までの人生の中で3回、死にかけてるんだよね。
 それでもまだこうして生きてるんだから、
 やっぱり悪運が強いんだろうなあ〜。』 

 私が中学校か高校の時だったと思う。日曜日の午前
中に家にいるということは部活が休みだったということ
だから、定期テスト前だったか?午前9時30分過ぎ頃
だかに寝ぼけ眼で2階から階段降りて来て、何気なく
テレビをつけたらNHK総合の鈴木健司アナウンサーの
対談番組の途中であった。

 対談相手は上記の言葉を身振り手振りで面白オカシ
クしゃべる人物。何や面白いオッチャンやな〜、だけど
目の輝きはスゴイなあ〜と思ってたら、映像は自動車
会社の映像ばかり。もしかしてこの人が・・・、そうホンダ
の本田宗一郎氏であった。

 それまで本というものを全く読まなかった私だが、この
番組をきっかけとして本田宗一郎氏の本は5冊くらい読
んだろうか?中でも印象深いのはソニーの故・井深大氏
が書いた『わが友・本田宗一郎』。経済評論家の針木康
雄氏の書き下ろし偉人伝は、本田宗一郎氏を最初に、
盛田昭夫氏(ソニー)、中内功氏(ダイエー)、稲盛和夫氏
(京セラ)、と読んだように思う。・・・思うとしか書けない
のは、火事で焼けてしまって本が残っていないからだ。

 これらの本を通して学んだ事は、

『元々能力のある人が、モノスゴイ努力をしている。』

ということ。そして

『どんなにスゴイ会社の業績でも、スゴイ人の人生でも、
 必ず波がある。
 順風満帆ということはあり得ない。』

ということだった。ホンダだって倒産の危機に瀕した
ことは幾度となくあったし、ソニーはベータマクスの
敗北で大変な痛手を蒙った。

 ダイエーの中内氏は戦地で死にかけた際に、もうろう
とした意識の中で、家族ですき焼きを食べている夢を見
た。そして、

『こんなところで死ぬ訳には行かない。
 俺は日本に帰ってみんなにすき焼きを腹いっぱい
 食べてもらうために、肉を安く売るのだ。』

と決心して、大変な「抵抗勢力」と戦いながら(・・・小泉
首相がんばってもらいたい)、徹底した安売りをしてダイ
エーを築き上げた。


 本田宗一郎氏は

『好きなレースをやる資金を稼ぐために、
 自動車を売る』

という、エンツォ・フェラーリと全く同じモノスゴイ情熱を
持った方だった。

『知名度を上げるために、レースをやる』

という近年の大多数の自動車会社とは、根本からして
違う。

 社長でありながら経営なんぞということには一切の
関心が無くて、銀行の印鑑は副社長の藤沢氏に預けっ
放し。本田氏は朝から晩まで工場に入りっ放しであっ
た。ホンダが資金繰りに行き詰まって倒産の危機に瀕
した時も、

『資金の方は私がナントカしますから、それよりも
  社長は工場でいい製品を作ってください。』

と、藤沢氏が資金繰りに駆けずり回った。本田氏は何
処でも作業服のまんまで行ってしまうので有名であっ
たが、この時に資金提供してくれた某銀行に行く時だ
けは、ちゃんと背広を着て行ったという。

『イチバンの失敗は、
  会社にホンダなんて名前をつけちゃった事だな。
 ホント、うちの会社が現在あるのは藤沢のお陰だ。』

 「最高のコンビ」と言われる、本田&藤沢コンビ。お
互いを信頼し切っていたからこそ、ホンダは発展した
のである。
 

 最近ナントナク本田宗一郎氏のことを考えていたら、
NHKプロジェクトXで12/4(火)に本田CVCCエンジ
ンのアンコール放送決定。私の思いが今井さん(チー
フ・プロデューサー)に通じたカナ?



 全然関係無い話だが、今度お生まれになる予定の
殿下の誕生日が、私の誕生日と同じになったらスゴイ
なあ、なんてことを勝手に期待している。自分の誕生日
がナントカ記念日になって祝日になったら、国民皆に
祝ってもらっているみたいで気持ちエエナア。



2001年
(平成13年)
11月21日(水)

オーディオ・アクセサリー誌の広告


 オリジナル・スピーカーの制作・販売を考えた時から、
『広告掲載するならオーディオ・アクセサリー誌』
と決めていた。ナゼならばこの雑誌は季刊なので、発行
されるのは季節毎の年4回。だからひとつの号が3ヶ月
は書店に並んでいる。と同時に内容が非常に濃いので、
購入されるオーディオ・マニアの方が多いのだ。広告の
対費用効果としては最も効率がいいのではないかと思う。

 それとは別に当方が小学館のラピタ誌のHP特集に
掲載された際、栃木県内各書店とオーディオ雑誌関係
に告知のハガキを出しまくったところ(その時点で元々
知っていた当時共同通信社の炭山さんは別にして)、
音元出版さんだけが丁寧な返事をE−メールで下さっ
たのだ。そしてその文面の中で

『何か新製品発表の際には御連絡下さい』

とあったので、KD-S10000完成の際に何気なくメー
ルをお送りしたら、ナント!音元出版さんのHPとオー
ディオ・アクセサリー誌の新製品情報のところに掲載し
て下さったのだ。・・・どちらも私は全く知らなくて、確か
HN:流離いの旅人さんから知らせていただいたのだと
思った。

 広告初掲載は音元出版さんの長岡鉄男先生の記念本
であった。これは受け付け締め切りの2日前に掲載依頼
を決定した。この時私は原稿指定サイズと指定ファイル
形式を元に、版下を自力で作ろうなどという無謀な挑戦
を試みた。アドビのイラストレーターはとてもじゃないが
無理なので、コーラルドローというソフトでがんばろうとし
たが、素人が半端な努力をしたところでたかが知れてい
る。あの豊富な機能を使いこなせるハズが無い。開始1
時間でギブアップして、版下作製は音元出版さんの方へ
全面依頼した。スピーカーの写真は全て撮影し直して、
元ファイルのデカイ容量のまんまメール添付で送信させ
ていただいた。

 そしてオーディオ・アクセサリー誌へは今回広告初掲載
(本日発売の103号のP.361)。もちろん今回も版下作製
は音元出版さんにお任せ。当方は大体のレイアウトと書
体を指定して、デジカメの元写真ファイルを添付してメール
送信させていただいただけである。写真はD-37K:1機
種のみ。

 先月末に校正用の版下が郵送されて来た際、

『さすがプロ!』

と唸ってしまった。文字と写真とバックのグラデーションの
バランスが絶妙である。カネゴンのスピーカーにもオーデ
ィオにも全く興味の無い方も、この広告を書店にてご覧い
ただけたら幸いである。音元出版のNさんの力作だ。

 私は基本的には何でも自分でやろうと努力はしてみるが、
諦めも早い。『餅は餅屋』との言葉があるが、私の場合は

『自分でやった方が安いか?
  他人に頼んで金払ってしまう方が安いか?』

とのことを常に考えている。何が何でも自分でやろうとは
思わない。

 仕事でイチバンやりたくなくて苦手なのは伝票書きと資金
繰りであるが、他にやってくれる人がいないので、こればか
りは仕方無く自分でやっている。